白瀬南極探検隊長墓碑

しらせ なんきょくたんけんたいちょう ぼひ(Grave Marker of Captain Shirase, Leader of the Antarctic Expedition)

【K-AC276】探訪日:2026/3.1

【K-AC276】白瀬南極探検隊長墓碑 愛知県西尾市吉良町瀬戸寄名山

【MAP】

〔駐車場所〕

【K-AC276】白瀬南極探検隊長墓碑

   1946(昭和21)年9月4日、愛知県西加茂郡挙母町(現・豊田市)にて腸閉塞のため満85歳で急死した日本南極探検隊隊長だった白瀬矗陸軍中尉の墓碑である。妻のやす夫人とともに西林寺の墓地に仮埋葬されていた遺骨を1957(昭和32)年3月に白瀬隊長の甥にあたる秋田県金浦町の白瀬知燈氏が分骨を請い訪れ、白瀬隊長の遺骨が残されていることを知り、墓碑が瀬門神社に建てられた。
 白瀬矗(幼名:知教)は1861(文久元)年に出羽国由利郡金浦村(現在・秋田県にかほ市)に浄蓮寺の住職・白瀬知道の長男として生まれた。8歳の頃に、平田篤胤の高弟ともいわれる医師で蘭学者・佐々木節斎の寺子屋に入り、コロンブスやマゼランの地理探検、そしてジョン・フランクリン隊の遭難(フランクリン遠征)などの話を聞かされ、11歳の頃には佐々木より北極の話を聞き、探検家を志すようになる。
 その後、軍隊で児玉源太郎と出会い、その助言でまずは郡司成忠海軍大尉が率いる千島探検隊に加わる。この探検では、暴風雨による遭難や壊血病でほとんどの隊員が死亡したが、白瀬は生き残った。
 日露戦争を経て、南極探検隊を結成する(北極はアメリカの探検家・ロバート・ピアリーが北極点踏破したため断念)。政府の補助は得られず、大隈重信侯爵を会長とする後援会の協力や借金により、1910(明治43)年11月29日、海南丸(東郷平八郎元師命名、204t)にて探検隊27人(隊員9人,船員18人)と29頭の樺太犬とともに品川を出港した。航海では隊員間で内紛もあったという。隊員による白瀬の毒殺未遂事件が起きた。
 1912(明治45)年1月3日に南極大陸を確認すると、1月12日から上陸地点を求めてさまよった。1月16日、南極に初上陸して、その湾を「開南湾」と命名した。その後、先に南極点遠征に向かったロアール・アムンセンの帰還を待つノルウェーのフラム号を発見し訪問している(なお、1月17日にはロバート・スコット隊も南極点に到達したが、帰路に全員遭難死している)。
 白瀬隊は1月18日に氷堤上に根拠地を設営すると、1月19日から突進隊5人と観測隊2人で出発し、開南丸は湾口へと離れた。1月20日に突進隊と観測隊は分かれ、突進隊は前隊3人と犬15頭、後隊2人と犬13頭で前進したが、体力も食糧も限界となり、1月28日午前0時20分に南緯80度05分,西経156度37分に到達したところで最終地点と定め一帯を「大和雪原」と命名。隊員全員で万歳三唱し、同地に「南極探検同情者芳名簿」を埋め、日章旗を掲げて「日本の領土として占領する」と先占による領有を宣言した。なお、この地点は棚氷であり、領有可能な陸地ではないことが後に判明した。
 白瀬らは1月31日に基地に帰還。1912(明治45)年2月4日に南極を離れ、ウェリントン経由で日本に戻ることとなった。いざ南極を離れようとすると海は大荒れとなり、連れてきた樺太犬21頭を置き去りにせざるを得なくなった(そのうち6頭は生還)。
 帰国時には芝浦では大歓迎を受けたが、後援会が資金を遊興飲食費に充てていたことが判明し、白瀬は4万円(現在の1億5千万円)の借金を背負い、隊員の給料すら支払えなかった。自宅,家財道具,軍服と軍刀を売却して、転居を重ね、実写フィルムを抱えて娘と共に、台湾,満洲,朝鮮半島を含む日本各地を講演して回り、20年をかけて借金の弁済に努めた。
 晩年は、白瀬の次女が間借りしていた愛知県西加茂郡挙母町の魚料理の仕出屋の一室で死去した。戦後の混乱期とはいえ、祭壇はみかん箱という粗末なものだったという。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】

【国重文】

関連時代 昭和時代:後期
関連年号 1946年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
白瀬 矗 ****


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白瀬矗と開南丸(Wikipediaより)

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