松尾山城跡

まつおやまじょうあと(Matsuoyama Castle Ruins)

【C-GF090】探訪日:2026/4.19

【C-GF090】松尾山城跡 岐阜県安八郡輪之内町福束928-1

【MAP】

〔駐車場所〕登り口に駐車場がある。

【C-GF090】松尾山城跡

   別名を長亭軒之城という。応永年間(1394~1428年)に小守護の富島氏が築いた城が初見とされる。その後、大永年間(1521~28年)に近江の浅井氏の家臣であった堀氏が在城したという。1570(元亀元)年には浅井長政が江濃国境の押さえの城として家臣の樋口直房を城主とした。同年、樋口直房が調略により織田方に降った後、1573(天正元)年には織田信長の家臣・不破光治が城主になっている(樋口直房は秀吉配下になったものの越前布陣中に単独で退転したため一族郎党ととも殺害された)。
 織田信長が近江を攻略した後、不破光治が越前に移されたことで1579(天正7)年に一旦は廃城となったが、関ケ原の戦いに先立ち、街道上の要地として石田三成が大垣城主の伊藤盛正に改修と守備を依頼した。しかし、戦い前日の1600(慶長5)年9月14日(10月21日)、小早川秀秋が伊藤盛正を排斥して陣取り、関ケ原の戦いに挑むこととなった。戦いの後は用途が無くなり廃されている。
 関ケ原を含めた東山道を北側に見下ろす位置にある標高293mの松尾山山頂を中心に東西400m,南北250mの規模で構築されている。山頂の主郭は城台と呼ばれ、切岸と土塁で周囲を囲われ、北側は帯曲輪と竪堀、南側は枡形虎口、馬出し状の曲輪を備える。馬出し状の曲輪は南側に大堀切を有し、その南端には城門があったとみられる。その他に東側に東曲輪と南東曲輪、西側に西曲輪と南西曲輪があり、西側の曲輪と主郭の間の大規模な空堀で侵入した敵を挟撃できるようになっている。南西曲輪は他の曲輪と比べ防御性が低く、樋口直房が城主の頃の遺構と考えられている。関ヶ原の戦い前には、伊藤盛正によって北側(関ヶ原側)を意識した改修が為されている。

【史跡規模】

【指 定】関ケ原町指定史跡(2004年4月17日指定)

【国 宝】

【国重文】

関連時代 室町時代 戦国時代 安土桃山時代
関連年号 1394~1428年 1521~28年・1570年・1573年・1579年 1600年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
富島氏 **** 堀氏 **** 樋口直房 ****
不破光治 G214 伊藤盛正 F*** 小早川秀秋 H483


【C-GF090】松尾山城跡
  関ヶ原の戦いの関連史跡を巡った後、最後に「小早川秀秋の陣跡」を訪れるために松尾山を登ったが、「松尾山城跡」としての認識がなかったため、その城域規模に驚いた。すこし堂々巡りはしたものの、登り口にあったパンフレットを片手に、主なる曲輪や堀切,竪堀をほぼすべて見ることができた。「小早川秀秋の陣跡」がある主郭へは距離はあるものの容易に行くことができる。当日は小学生の男女のスカウト(ボーイスカウト)の子どもたちや園児とも思われる子も親と共に登っていた。

【C-GF090】松尾山城跡


「松尾山城 散策マップ」をベースに加筆

【C-GF090】松尾山城跡 ※本サイトの写真は転用可です(画像をピックすると拡大、コメント表示されます)

山之神神社 東曲輪 東曲輪(両側に土塁) 東曲輪 東曲輪の土塁 東曲輪 東曲輪 主郭 小早川秀秋の陣跡の碑 主郭の土塁(東側) 主郭から見た関ヶ原方面 主郭から見た関ヶ原方面 主郭北斜面の竪堀 主郭北斜面の竪堀 主郭南の枡形虎口 主郭南側を馬出状の曲輪から見る 馬出状の曲輪 馬出状の曲輪 馬出状の曲輪 馬出状曲輪の南の堀切に架かる土橋 馬出状曲輪の南の堀切 馬出状曲輪の南の堀切 南東曲輪 南東曲輪(土塁が囲む) 南東曲輪の東下 南東曲輪 主郭南の切岸を通って西へ進む 帯曲輪へ上る 主郭西下の帯曲輪 帯曲輪から空堀を見下ろす 帯曲輪から空堀を見下ろす 主郭と西曲輪の間の空堀 主郭と西曲輪の間の空堀 空堀北側の喰い違い土塁 空堀北側の喰い違い土塁 空堀北側の喰い違い土塁 空堀南側にある井戸跡 西曲輪と南西曲輪の間の堀切 南西曲輪 南西曲輪 南西曲輪 南西曲輪 西曲輪と南西曲輪の間の堀切を南西曲輪から見下ろす 南西曲輪の南の堀切 南西曲輪の南の竪堀 空堀西から西曲輪へ入る 西曲輪 西曲輪 西曲輪の土塁 西曲輪の北下