稲葉正休屋敷跡(青野城跡)
いなばまさやす やしきあと(あおのじょうあと)(Residence Ruins of Inaba Masayasu [Aono Castle Ruins])
【R-GF027】探訪日:2026/5.10
岐阜県大垣市青野町
【MAP】
〔駐車場所〕
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築城年は定かではないが、美濃青野藩主の稲葉正休の屋敷跡とされる。青野城跡とも呼ばれる。美濃は稲葉氏発祥の地でもあり、縁深い土地である。
父の旗本・稲葉正吉は1656(明暦2)年に男色の事で家臣に刺殺され、その遺領を継いで美濃青野において5000石を領した。1674(延宝2)年に石見守に叙任され、その後、将軍近習を経て1682(天和2)年には若年寄に就任し、加増されて青野藩1万2000石を起こした。
1683(天和3)年、水害に悩まされていた淀川に赴き、河村瑞賢の随伴による視察を行い「淀川治水策」をまとめるが、その治水費用(4万両)の計上に不審に感じた大老の堀田正俊(正休の従甥)が随行した瑞賢に問い質したところ「半額の2万両でも可能」との意見を得、正休は淀川の治水事業の任から外されることとなった。
1684(貞享元)年8月28日、幕府の式日にあたり諸大名が登城して慌ただしい中で、正休は江戸城中で堀田正俊を刺殺した(医師の手当を受けた後、息を引き取る)。この騒ぎを知った老中の大久保忠朝,阿部正武,戸田忠昌らが正休を滅多斬りにして殺し、青野稲葉家は改易処分となった。享年45。伯母の孫にあたる正俊を暗殺した理由については明らかではないが、前年の淀川の治水工事の役目から外された件もあり、恨みによるものとも言われた。
正俊は暗殺のために周到な準備を重ねており、後に起きる赤穂事件に際しては、「このような手本があるのに、浅野長矩が吉良義央を仕留め損ねたのは武士として不覚悟も甚だしい」という批評まで広がったという。
屋敷跡には大正初期までは堀が巡らされていたというが、現在は畑一面の中に碑が建つのみである。