村上天皇村上陵
むらかみてんのう むらかみのみささぎ(Murakami Mausoleum of Emperor Murakami)
【K-KT073】探訪日:2026/6.14
京都府京都市右京区鳴滝泉谷町13
【MAP】
〔駐車場所〕
![]()
967年7月5日(康保4年5月25日)、在位のまま宝算42で崩御した第62代・村上天皇〔在位:946~967年〕の陵である。宮内庁上の形式は円丘。南約400mには子の円融天皇後村上陵がある。
村上天皇は第60代・醍醐天皇の第十四皇子で、母は藤原基経女中宮穏子、諱は成明。第61代・朱雀天皇の同母弟である。また、村上源氏の祖でもある。第十四皇子ながら、母が中宮であるため重んじられ、誕生の同年11月親王宣下。天慶3年(940年)2月、元服。三品に叙され、上野太守、大宰帥を経る。天慶7年(944年)4月22日に皇太子となり、2年後の天慶9年4月20日に朱雀天皇の譲位により践祚、4月28日に即位する。
先代に続いて天皇の外叔父の藤原忠平が関白を務めたが、忠平死去後は摂関を置かず、延喜時代とともに親政の典範とされた。しかし、実際には政治の実権は依然摂関家の藤原実頼・師輔兄弟にあり、初期には母の穏子や兄の朱雀上皇も後見を理由に政治に関与しようとしたため、彼の親政は名目にすぎなかった。
平将門と藤原純友の起こした承平天慶の乱(935~940年)の後、朝廷の財政が逼迫していたため倹約に努めた。文治面では、『後撰和歌集』の編纂を下命したり、内裏歌合を催行し、歌人としても歌壇の庇護者としても後世に評価される。また『清涼記』の著者と伝えられ、琴や琵琶などの楽器にも精通し、平安文化を開花させた天皇といえる。天皇の治績は「天暦の治」として後世景仰された。しかしその反面、この時代に外戚政治の土台が一段と固められ、吏治にも公正さが失われた。また天徳4年の内裏焼亡をはじめとする数々の災難もあった。在位のまま宝算42で崩御した。著書に三代御記のひとつである『村上天皇御記』や和歌集『村上御集』がある。
|
【史跡規模】
|
【指 定】 【国 宝】 【国重文】 |
| 関連時代 | 平安時代:中期 |
|---|---|
| 関連年号 | 967年 |
| 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
|---|---|---|---|---|---|
| 村上天皇 | K324 |
![]()
![]()