後宇多天皇蓮華峯寺陵
ごうだてんのう れんげぶじのみささぎ(Rengebuji Mausoleum of Emperor Gouda)
【K-KT071】探訪日:2026/6.14
京都府京都市右京区北嵯峨朝原山町
【MAP】
〔駐車場所〕陵前に駐車スペースがある。
![]()
1324年7月16日(元亨4年6月25日)、大覚寺御所にて宝算58で崩御した第91代・後宇多天皇〔在位:1274~87年〕の陵である。宮内庁上の形式は方形堂・石造五輪塔。崩御3日後に蓮華峰寺の傍山に葬られたという。同所には28歳で崩御した母の亀山天皇皇后の洞院佶子も葬られている。
後宇多天皇は亀山天皇の第2皇子で、母は左大臣・洞院実雄娘の皇后・佶子。諱は世仁。祖父・後嵯峨上皇の意志により、1268(文永5)年に生後8か月で立太子し、1274(文永11)年1月には亀山天皇から譲位を受けて8歳で践祚した。亀山上皇による院政が行われた。
治世中には、元・高麗軍による文永・弘安の両役、いわゆる元寇が発生している。また、この時期より持明院統と大覚寺統による皇位の争奪が表面化し、調停策として出された幕府の両統迭立案に基づく皇統の分裂が続く。1287(弘安10)年、幕府からの要請により21歳で持明院統の後深草上皇の皇子・熈仁親王に譲位(伏見天皇)した。
第一皇子である94代・後二条天皇の治世では院政を敷き、訴訟制度改革に取り組み、対立する持明院統の花園天皇からも「末代の英主」と称えられた。しかし、寵姫の遊義門院の死から晩年には真言宗の修行への傾倒が過剰で政治を疎かにしたとも言われ、花園は「晩節を汚した」と批判している(それでも「末代の英主」と評価)。
書道では宸翰様の名手としても知られ、『後宇多天皇宸翰御手印遺告』(大覚寺蔵)など数点の書作品が国宝に指定されている。
なお、崩御した1324(元亨4)年9月には正中の変が発生している。
|
【史跡規模】
|
【指 定】 【国 宝】 【国重文】 |
| 関連時代 | 鎌倉時代 |
|---|---|
| 関連年号 | 1324年 |
| 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
|---|---|---|---|---|---|
| 後宇多天皇 | K335 |
洞院佶子(亀山天皇皇后) | F587 |
![]()
![]()