大海人皇子野上行宮跡
おおあまのおうじ のがみあんぐうあと(Prince Oama's Nogami Angu [temporary palace] Ruins)
【Z-GF009】探訪日:2026/4.25
岐阜県不破郡関ケ原町野上1231-2
【MAP】
〔駐車場所〕
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672年6月27日、壬申の乱に際して大海人皇子が本営として設けた仮宮跡である。所在地については諸説あるが、野上に比定するのが妥当とされる。
もとは不破の尾張大隅の別邸(私邸)であったが、行宮を構え大海人皇子を迎え入れた。また、大隅は多額の軍資金も提供しており、乱の後にはこの労によって「連」から「宿禰」に昇格されている。
天智天皇が病に臥せると、大海人皇子は天皇の実子・大友皇子を皇太子として推挙し、自ら出家して吉野宮に下る。天智天皇10年12月3日(672年1月7日)に近江宮の近隣山科にて天智天皇が崩御すると、大友皇子は皇位を継ぐ(実際に即位したかは不明)。大海人皇子は近江側による殺害情報もあり、6月24日に吉野を出立する。まず名張に入り駅家を焼いたが、名張郡司には出兵を拒否された。しかし、美濃・伊勢・伊賀・熊野やその他の豪族からは信頼を得て、伊賀では阿拝郡司が兵約500で参戦した。そして、積殖(現在の伊賀市柘植)で長男の高市皇子の軍と合流した(鈴鹿関で合流したとする説もある)。さらに伊勢国でも郡司の協力で兵を得ることに成功し、美濃へ向かった。美濃では大海人皇子の指示を受けて多品治が既に兵を興しており、不破の道を封鎖した。6月27日に野上に本営を置く。7月2日には、東国からの兵力を集めた大海人皇子は軍勢を二手にわけて大和と近江の二方面に送り出した。7月22日には近江の瀬田橋で大友軍を壊滅させ、翌日、大友皇子は自害した。
大友皇子の首は野上行宮に運ばれ、大海人皇子の検分を受けた後、地元民によって自害峯と呼ばれる大友皇子首塚に葬られたとされている。
なお、野上行宮跡からは朝鮮式土器が出土しており、奈良時代には行基が行宮材にて南方六坊を建てたという。