宮滝遺跡(吉野宮跡)
みやたきいせき(よしのみやあと)(Miyataki Ruins [Yoshino Palace Ruins])
【V-NR006】探訪日:2026/7.11
奈良県吉野郡吉野町宮滝 地内
【MAP】
〔駐車場所〕
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縄文時代後期から飛鳥・奈良時代までにわたる複合遺跡で、いくつかの異なった年代の遺構が存在し、大海人皇子(後の天武天皇)が隠棲した吉野宮の存在も確認されている。特に、縄文時代の後期〜晩期と、弥生時代の中期の大規模遺跡は注目に値する。多くの掘立柱建物の遺構と礎石を持つ建物遺構(9世紀のものも含む)、さらに敷石や溝の遺構、土坑からは多数の土器が出土している。この遺跡は紀伊半島のほぼ中心に位置し、東に伊勢湾、西に紀伊水道(和歌山湾)、南に熊野灘、そして、宮滝から北方向に進むと飛鳥や奈良にいたる。
縄文時代の遺構は中位段丘上にあり、早期の土器がわずかながら見つかっており、また、後期の土器で宮滝式土器(文様付けに巻貝を多用)と呼ばれる土器群が出土している。
弥生時代の遺構は、段丘上に広範囲に広がっており、10棟の竪穴建物と1棟の長方形の掘立柱建物,7基の方形周溝墓,土坑墓,壺棺墓などの遺構が検出されている。この遺構から、弥生前期の土器が少数と弥生中期の土器が多数出土している。
吉野宮の所在については、宮滝遺跡であることはほぼ確定している。飛鳥・奈良時代の遺構は3期に分かれ、Ⅰ期が天武・持統朝のもの、Ⅱ期は聖武朝前後のもの、Ⅲ期は898(昌泰元)年の宇多上皇の行幸に関連するという。各期の掘立柱建物や柵列,石溝などが発掘されており、掘立穴から奈良時代前半の須恵器・土師器の坏類、石敷溝内から奈良時代の軒丸瓦が出土している。Ⅲ期には礎石建物が1棟分確認されている。
671(天智天皇10)年、天智天皇が病に臥せると、大海人皇子は天皇の実子・大友皇子を皇太子として推挙し、自らは出家して吉野宮に下った。天智天皇が崩御すると、大友皇子の大海人皇子殺害情報があり、大海人皇子らは672年6月24日、吉野宮を出立して、大友皇子(近江朝)との壬申の乱へと突入し、1ヶ月後には大友皇子を自害へと追い込んだ。
そうした経緯もあり、天武天皇は679(天武天皇8)年5月5日には皇后となった鵜野皇女(後の持統天皇)や草壁皇子らを連れて吉野宮に行幸し、吉野の盟約を宣言している。その後、持統天皇も在位中に31回、退位後も含めて通算33回の吉野宮行幸を行っている。
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【史跡規模】
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【指 定】国指定史跡(1957年7月1日指定) 【国 宝】 【国重文】 |
| 関連時代 | 縄文時代後期~飛鳥・奈良時代 |
| 関連年号 | 672年 |
| 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
| 大海人皇子 | K307 |
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宮滝遺跡(現地説明板より)