増田長盛邸跡

ましたながもり ていあと(Residence Ruins of Mashita Nagamori)

【R-AC087】探訪日:2026/10.8

【R-AC087】増田長盛邸跡 愛知県稲沢市増田南町

【MAP】

〔駐車場所〕

【R-AC087】増田長盛邸跡

   1545(天文14)年、増田長盛は尾張国中島郡増田村に生まれ、育ったとされる。この地に邸宅があったと伝えられている。ただ、近江国浅井郡益田郷が生地とする説もある。
 1573(天正元)年、28歳の長盛は、まだ織田信長の家臣であった長浜城主・羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に召し出され200石で仕えた。長浜市永保町には、長浜時代の長盛の住居跡がある。秀吉の麾下で中国攻めをはじめ多くの戦に従軍し、1582(天正10)年には奏者に任じられ、上杉景勝との外交交渉などを担当した。1590(天正18)年の小田原征伐においては里見義康担当の申次となり、安房国で差出検地の施行と知行宛行状の発給を行っており、後北条氏が滅亡すると、さらに下野・常陸・安房の大名に対する豊臣政権の取次となった。591(天正19)年閏正月には、長束正家と共に近江を検地した。このように、特に政務や外交に堪能で豊臣家の能吏として重きをなした。
 秀吉の晩年には五奉行となる。1597(慶長2)年には再び安房国を訪れて、総検地を施行している。
 秀吉没後は、表向きは石田三成らと反徳川家康の立場を鮮明にしているが、一方で石田三成と大谷吉継の謀議があった7月12日の同日、家康のもとに、ただちに謀議の趣旨を密告している。9月15日に行われた関ヶ原の戦いには参加せず、毛利輝元とともに大坂城守備部隊として西の丸に兵3,000を率いて駐屯。戦後の9月25日、出家して謝罪し、9月27日に大坂城西の丸にて沙汰を申し渡され改易となる。その身柄は高野山に預けられた。
 後に高野山を出て岩槻城主・高力清長預かりとなるが、1615(元和元)年、尾張藩主・徳川義直に仕えていた息子の増田盛次が大坂夏の陣で尾張家を出奔して豊臣氏に与したため、長盛は戦後自害を命じられ、同年5月27日自害した。享年71。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 戦国時代
関連年号 1545年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
増田長盛 ****



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