豊国神社

とよくにじんじゃ (Toyokuni Shrine)

【S-TK009】探訪日:2015/10.4

【S-KT009】豊国神社 京都府京都市東山区茶屋町530 <📲:075-561-3802>

【MAP】

〔駐車場所〕

   1598(慶長3)年8月18日、豊臣秀吉は死去したが、その死は伏せられ遺体は火葬されることなく伏見城内に安置されていた。死去の翌年の1599(慶長4)年4月13日に遺命により東山大仏(方広寺)の東方の阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬され、その麓に高野山の木食応其によって廟所が建立されたのに始まる。廟所は秀吉の死後間もなく着工されたが、着工時は大仏の鎮守社と称していた。この鎮守社は北野社に倣った八棟造りだったとされる。秀吉は奈良東大寺大仏殿を鎮護する手向山八幡宮に倣い、自身を「新八幡」として祀るように遺言したといわれるが、朝廷から望みとは相違して豊国乃大明神の神号が与えられた。4月18日に遷宮の儀が行われ、社は豊国神社と命名された。
 豊国社の遷宮は吉田神道の吉田家の当主吉田兼見が主に取り仕切り、豊国社の社務職は兼見の孫で養子の萩原兼従が就任している。また兼見の弟神龍院梵舜が、豊国社内の神宮寺の社僧になった。1604(慶長9)年には徳川家康が、萩原兼従の社家としての地位を承認し、神龍院梵舜がこれを補佐するように命じている。
 しかし、1615(慶長20)年に豊臣宗家が滅亡すると、徳川家康の意向により方広寺の鎮守とすべく、後水尾天皇の勅許を得て豊国大明神の神号は剥奪され、神社自体も廃絶された。秀吉の霊は大仏殿裏手南東に建てられた五輪石塔に遷された。当時の史料ではこの石塔を秀吉の墳墓と呼んでいる。また、秀吉の遺体そのものは霊屋とともに山頂に遺された。
 秀吉の正室北政所の願いで社殿は残されたものの、以後一切修理をすることは禁止され、江戸時代を通して再興が認められることはなかった。滋賀県竹生島にある都久夫須麻神社の本殿は創建時の豊国神社社殿を移築したものと伝えられている。
 1868(慶応4)年閏4月、明治天皇が大阪に行幸したとき、ようやく豊国神社の再興を布告する沙汰書が下された。同年5月には鳥羽伏見の戦いの戦没者も合祀するよう命じられた。1875(明治8)年に東山の地に社殿が建立され、1880(明治13)年に方広寺大仏殿跡地の現在の地に社殿が完成し遷座が行われた。1897(明治30)年には阿弥陀ヶ峰山頂に巨大な石造五輪塔が建てられたが、この工事の際に土中から素焼きの壷に入った秀吉の遺骸とおぼしきものが発見されている(遺骸は丁重に再埋葬された)。その西の下方の平坦地、かつての社殿があった太閤坦には秀吉の孫である国松と秀吉の愛妾松の丸殿の供養塔建っている。

【史跡規模】

【指 定】石塔(五輪塔):国指定史跡(1964年指定)
                方広寺大仏殿跡及び石塁・石塔として指定
【国 宝】唐門(伏見城→二条城→金地院→豊国神社と移築)
【国重文】・紙本著色豊国祭図(狩野内膳筆/六曲屏)
     ・黄地菊桐文付紗綾胴服
     ・桐唐草蒔絵唐櫃,桐鳳凰蒔絵唐櫃,桐薄蒔絵唐櫃
     ・鉄燈篭(1600年銘)
     ・薙刀直シ刀(無銘 伝粟田口吉光)

関連時代 安土桃山時代 江戸時代:前期 明治時代
関連年号 1598年・1599年 1615年 1868年・1880年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
豊臣秀吉 ZZ01 深覚坊応其 **** 吉田兼見 NT38
萩原兼従 NT38 梵舜 NT38 徳川家康 TG01
明治天皇 K701

 

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