上笠間城跡
かみかさまじょうあと(Kamikasama Castle Ruins)
【C-NR080】探訪日:2025/6.29
奈良県宇陀市室生上笠間
【MAP】
〔駐車場所〕
築城年は定かではないが、応永年間(1394~1428年)頃の上笠間氏の居城とされている。上笠間氏は室町時代初期から戦国時代にかけて山内衆の強者だった多田氏と行動を共にしていた東山内の小国人であった。上笠間の安楽寺では東山内の国人たちが染田天神の連歌会を催し、その連歌会の年預(役職の1つ)の中に上笠間氏の名がみえる。
1483(文明15)年11月5日、筒井党の攻撃によって、上笠間城は多田城とともに落城している。その後、上笠間氏は筒井氏の傘下となった。
1550(天文19)年8月頃には、上笠間氏は多田氏とともに伊賀の名張を攻め従えたこともあったが、1569(永禄12)年6月25日、上笠間一族6人が自害し滅亡した。なお、当地の北方には下笠間氏の居城・笠間城があり、同族とみられている。
城は上笠間集落の北の標高370m,比高48mに位置し、大和高原の山内地方と名張を結ぶ笠間街道を見下ろす要害の地にある。主郭は東西22m,南北45mと広く、平常の舘がこの地にあったと考えられる。東側には見張台を兼ねた東西10m,南北15mの高い曲輪があり、その東側は幅10mの堀切を設けている。さらに、その東側の高台には東西17m,南北17mの見張台がある(ただし、堀切から東は防獣柵が張られ、入ることはできない)。なお、主郭後方の高台の曲輪は後醍醐天皇の皇后を葬ったという「南帝皇后陵」とされるが、古墳の形跡はなく城跡である。
上笠間城跡の西約600mには田部城跡、南東約200mにはガイショウ寺城跡がある。
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 室町時代 | 戦国時代 |
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関連年号 | 1394~1428年・1483年 | 1550年・1569年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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上笠間氏 | **** |
上笠間城縄張り図(『日本城郭大系 第10巻』に加筆)