おおたにそびょう(Otani Mausoleum)

【K-KT069】探訪日:2025/10.13

【K-KT069】大谷祖廟 京都府京都市東山区円山町477

【MAP】

〔駐車場所〕

【K-KT069】大谷祖廟

   真宗本廟(東本願寺)が所有する墓地で、浄土真宗の宗祖・親鸞の御廟がある。江戸時代は「大谷御坊」と呼称された。
 親鸞は、1263年1月9日(弘長2年11月28日)、押小路南万里小路東にある実弟の尋有が院主を務める善法院にて、享年90(満89歳)をもって入滅した。荼毘の地は、延仁寺京都市東山区今熊野)とされる。
 1272(文永9)年に、東国にいる親鸞の弟子たちの協力を得た覚信尼により、親鸞の遺骨は「大谷」から「吉水の北辺」(知恩院の塔頭・崇泰院がある所)に改葬され、大谷廟堂が建立される。
 1321(元亨元)年には、大谷廟堂は覚如によって寺院化され、本願寺と号して成立する。本願寺はこの年から1465(寛正6)年までの間は大谷本願寺とも呼ばれる。1465(寛正6)年には比叡山延暦寺西塔の衆徒らによって大谷本願寺が破却される(寛正の法難)。破却後は、井上願知によって祖墳は守護され大谷道場と称した。
 1532(天文元)年、天文の錯乱によって山科本願寺が破却される。その際、大谷道場も破却されるが、願知の子孫・祐願によって復興された。1571(元亀2)年、石山合戦に際し大谷道場が再び破却される。1589(天正17)年に祐願の妻・妙祐と子息・祐誓が、大谷道場の復興にあたって豊臣秀吉から地銭免除の朱印状を受けている。
 1602(慶長7)年、本願寺の東西分立に際して、教如は東本願寺境内に親鸞及び本願寺歴代の仮墓を建立する。1603(慶長8)年には知恩院の拡張造営工事に際して祐誓の妹婿の善了の申し出により、親鸞荼毘の「延仁寺」の旧地と伝えられる鳥部山に代替地を拝領し、大谷道場は改められ新たに勝久寺として創建された。また、大谷道場の旧地には知恩院塔頭の崇泰院が建立された。
 寛永16年(1639年)、勝久寺は西本願寺に属することとなった。その後、勝久寺は西本願寺の親鸞廟所として整備され、大谷本廟(西大谷)となった。勝久寺が西本願寺の末寺になったことにより、東本願寺では新しい祖廟の造営が求められるようになる。1670(寛文10)年に、東本願寺第14代・琢如は、東本願寺境内に置かれていた親鸞及び本願寺歴代の仮墓を教如,宣如の両墓と共に東山にある現在地に移し、大谷御坊と称した。
 1701(元禄14)年、本堂が完成する。1745(延享2)年には第8代将軍・徳川吉宗から大谷御坊に隣接している長楽寺の境内地一万坪を寄進され、寺基が拡張された。1820(文政3)年に大谷新道が開かれる。
 明治以降、大谷管刹,大谷別院の改称を経て、1952(昭和27)に東本願寺の飛び地境内と定められて「大谷本廟」と改称され、さらに
1981(昭和56)年に現在の名称である大谷祖廟に改められた。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 鎌倉時代 室町時代 戦国時代 江戸時代:前期
関連年号 1263年・1272年・1321年 1465年 1532年・1571年 1670年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
親鸞(本願寺範宴) F341 覚信尼 F341 琢如(本願寺光瑛) F349


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