横地城跡
よこちじょうあと(Yokochi Castle Ruins)
【C-SZ035】探訪日:2015/10.23・2026/4.12
静岡県菊川市東横地
【MAP】
〔駐車場所〕千畳敷(西の城)への登り口には広い駐車場がある。
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別名を金寿城ともいう。築城年は定かではないが、15世紀前半(室町時代初頭)~半ば頃に東遠江を本領とする横地氏によって築かれた。
初代の横地太郎家永(1052~1126年)は、言い伝えでは、八幡太郎義家が前九年の役で父・源頼義の加勢のために奥州へ向かう途中、磐田見付宿で地元の有力者である相良太郎藤原光頼の娘との間に授かった子で、義家の後ろ盾によって横地村に居を構えたという。滅亡まで450年間17代続き、遠江の古名族として君臨した。
横地城は10代・横地太郎家長(1337~1409年)によって築かれたとも。11代・横地長豊は将軍の御供衆として京都に滞在し、12代の横地長泰は1439(永享11)年の永享の乱で戦死した。1471(文明3)年には将軍足利義政の命により、横地秀綱が尾張国へ移住し植田城を築いている。13代の横地長秀のとき、駿河守護の今川義忠と遠江守護の斯波義廉の対立に際し、同族の勝間田氏と共に斯波氏方について挙兵するも今川義忠に攻められ、1476(文明8)年に落城した。なお、今川義忠はその帰路に遠江国塩買坂で横地の残党に襲われ討死した。
城は牧ノ原台地から西側の菊川水系の平野部に伸びる丘陵上および谷地形を利用して造られており、その規模は東西400m×南北450mを測る。尾根の上部に「東の城」,「中の城」,「西の城」という三つの主要区画から成る一城別郭の縄張り構造となっている。
「東の城」は横地城の最高所に位置する約30×10ⅿの本曲輪を中心に、北側に二の曲輪,腰曲輪を配し、大小の堀切で尾根を遮断している。「西の城」は東西10~15ⅿ,南北50ⅿの最高所が本曲輪で横地神社が建つ。本曲輪の南側に二の曲輪を配し、土塁,堀切が残る。さらに下方は「千畳敷」と呼ばれる東西約90ⅿ,南北最大幅約30ⅿの平場が広がる。「西の城」の西にある急峻な谷は「金玉落しの谷」と呼ばれる城兵の戦闘訓練の場となっていた。また、「東の城」と「西の城」との中継点でもある「中の城」は低い小規模は曲輪であるが、南側に土塁を設け、南からの敵を防ぐ出城的な役割を持っていたと推定される。東側には「木戸口」と呼ばれる幅3ⅿほどの竪堀状に掘られた遺構がある。