笠置城跡

かさぎじょうあと (Kasagi Castle Ruins)

【C-KT004】探訪日:1990/12/1・2014/9/8

【C-KT004】笠置城跡 京都府相楽郡笠置町笠置笠置山32

【MAP】

〔駐車場所〕

   1331(元弘元)年、後醍醐天皇が側近とともに京を脱出して奈良時代から続く笠置寺がある標高288mの笠置山に入った。特に、山城として堅固な防御をもつものではなく、最高所の天皇が入ったところ(行在所)を本丸とし、その北下の削平地を二の丸と呼んでいる。南へ続く尾根の部分に二重堀切や横堀などがあったとされるが、道路造成により消滅しているという。
 後醍醐天皇は討幕を企てるが、天皇側近の吉田定房が幕府に密告したために討幕計画が発覚した。計画に関与した日野俊基,文観ら天皇側近は幕府側に逮捕され、天皇にも幕府の追及の手が伸びようとしていた。幕府側の追跡をかわすために天皇に変装した花山院師賢は比叡山へ向かい、後醍醐天皇は三種の神器を保持し、四条隆資らとともに東大寺を経て鷲峰山金胎寺に移り8月27日には笠置山に至った。
 一方、天皇が比叡山にはいないことに気付いた幕府側は宇治において75,000の兵を集め、翌日には笠置山を包囲してこれを攻撃し始めた。天皇側の兵は3,000余と戦力の面では圧倒的に不利な状況ではあったが、天然の要害を利用し幕府側相手に善戦していた。一の木戸を守っていたのは三河国から駆け付けた飯盛城の弓の達人・足助次郎重範である。下から攻め上がってくる幕府軍の敵将・荒尾九郎,弥五郎兄弟を弓で射ち落している。しかし、9月28日夜の風雨の中、幕府側の陶山義高らが山に火を放ち、北条方50名の決死隊の奇襲攻撃により天皇側は総崩れとなり、笠置山はついに陥落した。二ノ丸跡の北東にある「ゆらぎ石」は幕府軍の奇襲に備えた武器として運ばれて来た石であるが、使われることはなかった。天皇はこの辺りで奇襲を受けたという。数日以内に天皇や側近らは幕府側に捕えられた。後醍醐天皇は隠岐の島へ流された。
 1541(天文10)年、畠山義堯が河内を支配するようになると、家臣の木沢長政は河内飯森山城を築き城主となり、山城,大和へ勢力拡大を図り笠置城は木沢長政の持城となった。しかし、長政は、翌1542(天文11)年に三好長慶と河内大平寺での合戦で討ち死にした。

【史跡規模】

【指 定】国指定史跡
【国 宝】

【国重文】

関連時代 鎌倉時代 戦国時代
関連年号 1331年 1541年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
後醍醐天皇 K501 吉田定房 F462 花山院師賢 F731
四条隆資 F870 足助重範 G605 荒尾九郎 ****
荒尾弥五郎 **** 陶山義高 **** 木沢長政 ****

 

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▲後醍醐天皇行在所

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▲行在所(本丸)

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▲行在所跡(本丸跡)

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▲行在所跡(本丸跡)

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▲行在所跡(本丸跡)

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▲二の丸跡

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▲二の丸跡

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▲二の丸跡

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▲ゆらぎ石

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