長江城跡

ながえじょうあと (Nagae Castle Ruins)

【C-AC488】探訪日:2022/1/28

【C-AC488】長江城跡 愛知県北設楽郡設楽町字松ヶ根

【MAP】

〔駐車場所〕登り口に駐車場がある。

【C-AC488】長江城跡

   築城年は定かではないが、鎌倉時代に源頼朝から永江荘の地頭職に任ぜられた永江八郎時俊が標高730m,比高530mの山頂に築いたとされる。
 13代にわたり永江,小松,八橋,津具,豊根村大沢,東栄町小林など永江八邑を治めた。13代の永江満綱,尚綱兄弟は南北朝合一後も東国各地を転戦していた南朝方の尹良親王(伝説上の人物ともされるが)を奉じて、1424(応永31)年、信濃国から三河国足助へ向かう途中、浪合の合戦で親王と共に討死した。嫡子・盛綱は幼少であったため、吉良の斉藤則盛に養育されることとなり、長江を離れたことで廃城となった。
 現地説明板や標柱によれば、大手口を入ると設楽郡内で最大という広大な三の曲輪,二の曲輪があり、山頂の本曲輪の東下部には堀切があるとする。ただ、曲輪には明確な虎口や土塁もなく加工された遺構は見受けられず、自然地形の緩斜面で曲輪とは認められないとする見解もある(日本城郭体系)。堀切も峠の切通と思われる。

【史跡規模】

【指 定】設楽町指定史跡
【国 宝】

【国重文】

関連時代 鎌倉時代 室町時代
関連年号 1424年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
永江時俊 **** 永江満綱 **** 永江尚綱 ****
永江盛綱 **** 斉藤則盛 F***

 

【C-AC488】長江城跡
 大手口を入ると、いきなり広大な三の曲輪が現れる。最初は「広い!」と感動したが、しばらくすると違和感を感じた。虎口や土塁もなく、どこまでが曲輪なのかメリハリがない。二の曲輪も同様で、かつ全体が緩斜面である。探訪後に『日本城郭体系』を見たが、やはり曲輪とは認められないと記されていた。当時の生活遺物等が出土すればはっきりするのであろうが。なお、二の曲輪から本曲輪まではジグザク道になっているが、赤リボンがある箇所で方向転換すればよい。

 

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【C-AC488】長江城跡 ※本サイトの写真は転用可です(ダウンロードすると、より鮮明に見えます)

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▲大井戸の祠

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▲登城口

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▲登城道

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▲大手口

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▲三の曲輪

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▲三の曲輪

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▲三の曲輪

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▲三の曲輪

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▲三の曲輪

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▲二の曲輪へ

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▲二の曲輪

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▲二の曲輪

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▲二の曲輪

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▲二の曲輪

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▲二の曲輪

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▲二の曲輪

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▲二の曲輪

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▲二の曲輪

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▲本曲輪へ

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▲本曲輪入口へ

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▲入口(本曲輪側から見る)

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▲本曲輪

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▲本曲輪

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▲本曲輪

【C-AC488】長江城跡

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▲本曲輪

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▲本曲輪

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▲堀切へ下りる

【C-AC488】長江城跡

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▲堀切

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▲堀切の向こう側の尾根

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▲堀切

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▲堀切

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▲堀切

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▲本曲輪へ上がる道