堀尾氏邸宅跡

ほりおし ていたくあと (Residence Ruins of Horio Clan)

【R-AC010】探訪日:2015/9/20

【R-AC010】堀尾氏邸宅跡 愛知県丹羽郡大口町堀尾跡2丁目28

【MAP】

〔駐車場所〕

【R-AC010】堀尾氏邸宅跡

   築造年は定かではないが、鎌倉時代に尾張国へ下向した堀尾氏によって築かれたとされる。戦国時代の堀尾吉晴までの堀尾家代々の邸宅跡であり、現在の八劔神社一帯に築かれていた。
 堀尾吉晴は、1543(天文12)年、ここ尾張国丹羽郡御供所村に土豪の堀尾泰晴(吉久,泰時)の長男として生まれた。父は岩倉織田氏(織田伊勢守家)の織田信安に仕えていたが、岩倉織田氏が滅亡したため、吉晴は父と共に浪人となった。その後、尾張を統一した織田信長に仕え、木下秀吉配下に属した。以降、稲葉山城攻め,備中高松城攻め,山崎の戦い,賤ヶ岳の戦い,小田原征伐などで武功を挙げ、1590(天正18)年に徳川家康が関東に移封されると旧領の遠江国浜松城主12万石に封じられた。
 なお、嫡子の堀尾金助は小田原征伐の山中城攻めで戦傷死している。金助の菩提を弔い供養すべく、母親が33回忌に息子を最後に見送った橋の架け替えを行ったという「裁断橋」が熱田の宮宿の東の精進川に掛けられていた。現在はその川も埋められており、模擬復元された橋が八劔神社の北側に作られている。
 秀吉没後は1599(慶長4)年に隠居して次男の忠氏に家督を譲るとともに、徳川家康に接近している。家康からは越前府中に5万石を隠居料として与えられた(家康が与えた最初の知行とされる)。関ヶ原の戦いでは東軍に与し、家康が会津征伐に赴く際には浜松城にて忠氏と共に歓待した。9月の本戦には忠氏が参加し戦功を賞され出雲国富田24万石に加増移封された。
 しかし、1604(慶長9)年に忠氏が早世したため、家督は孫の忠晴が継ぐが、幼年のため吉晴がその後見役を務めた。1607(慶長12)年には松江城を築いて本拠を移したが、1611(慶長16)年に吉晴が没し、忠晴も嫡子なく没したため堀尾家は改易となり、藩士たちは尾張国に帰郷したといわれる。

【史跡規模】

【指 定】大口町史跡史跡(1973年10月15日指定)
【国 宝】
【国重文】

関連時代 鎌倉時代 安土桃山時代 江戸時代:前期
関連年号 1590年・1599年・1600年 1604年・1607年・1611年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
堀尾吉晴 TS07 堀尾泰晴 TS07 織田信安 OD02
豊臣秀吉 ZZ01 徳川家康 TG01 堀尾金助 TS07
堀尾忠晴 TS07 堀尾忠氏 TS07

 

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▲八劔社

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▲堀尾金助と母の像

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▲八劔社

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▲八劔社

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▲八劔社

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▲復元された裁断橋