上狭川城跡

かみさがわじょうあと (Kamisagawa Castle Ruins)

【C-NR025】探訪日:2022/6/8

【C-NR025】上狭川城跡 奈良県奈良市狭川東町

【MAP】

〔駐車場所〕

   築城年は定かではないが、室町時代後期に狭川惣領家の一族であった狭川福岡氏によって築かれたとされる。狭川氏は室町期以降、徐々に勢力を拡大し、応仁の乱前後は筒井氏傘下の国人領主として活動している。柳生氏や須川氏らとも抗争を繰り広げている。
 戦国時代末期の当主に福岡重孝がおり、一時は松永久秀に従ったが、後に筒井氏に従って活動した。子の干基は本能寺の変で討死したため、弟の干孝が跡を継いだ。干孝は幼少時に松永久秀の人質として信貴山城に居住していたが、織田信長によって信貴山城が攻め落とされると、長浜城主となっていた山内一豊の家臣となった。以後、山内氏の家臣として土佐国で家老,上士として続き、幕末には五箇条の御誓文を起草したことで知られる福岡孝弟を出している。なお、山内一豊に従わず大和国で生活した一族もいる。
 登城口は県道33号線沿いの上狭川バス停付近からと、十三重石塔がある狭川東町公民館(ここは館跡とされる)がある。城は公民館の真北に位置し、主郭はほぼ長方形の単郭で全周に土塁を巡らせており、北西には行者堂が建つ。特徴的なのは南側の虎口構造で、堀切に架かる土橋を渡ると二重の外枡形のような折れ曲がった堀道を進むことになる。他にはあまり例を見ない構造である。
 なお、北東には狭川氏の本城とされる下狭川城跡がある。

【史跡規模】

【指 定】
【国 宝】
【国重文】

関連時代 室町時代 戦国時代
関連年号 1577年・1582年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
福岡重孝 G*** 福岡干基 G*** 福岡干孝 G***
松永久秀 **** 山内一豊 F944 福岡孝弟 G***

 

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▲狭川東町公民館前の十三重石塔

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▲館跡とされる公民館

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▲公民館裏の社の横に案内板がある

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▲案内板

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▲左へ

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▲土橋

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▲堀切

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▲虎口

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▲虎口西の土塁

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▲土塁上

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▲土塁上

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▲行者堂

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▲行者堂

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▲行者堂南の土塁

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▲土塁

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▲土塁

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▲土塁

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▲土塁上から見た主郭

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▲主郭東側の土塁

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▲主郭

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▲主郭

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▲主郭

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▲主郭