信貴山城跡

しぎさんじょうあと (Shigisan Castle Ruins)

【C-NR002】探訪日:1993/9/12・2018/10/30

【C-NR002】信貴山城跡 奈良県生駒郡平群町信貴山1308

【MAP】

〔駐車場所〕

【C-NR002】信貴山城跡

   1460(長禄4)年10月に応仁の乱の過程で戦闘に敗れた畠山義就が信貴山に陣を退いたという記録もあるが、本格的な城郭を築いたのは木沢長政とされる。1536(天文5)年、木沢長政によって大和と河内の国境にある生駒山系の信貴山(標高433m)山上に築かれた。信貴山城の城域は、古代山城の高安城の範囲に含まれるが、城域には高安城の遺構は現存していない。
 しかし、1542(天文11)年3月、木沢長政が太平寺の戦いで敗死すると信貴山城は二上山城と共に落城してしまう。その後、10数年もの空白を経て、1560(永禄3)年11月に、大和国を制圧した松永久秀は、信貴山城を選んで大和支配の拠点とした。また、久秀は多聞山城も築城し、多聞山城は政治目的、信貴山城は軍事目的と異なった目的でそれぞれを使用した。信貴山城と多聞山城との間は20kmほどあり、出城の構築や龍田城・筒井城の使用によって連絡路を確保していた。1563(永禄6)年には、信貴山城は一時的に筒井氏の手に渡ったが、久秀は同年中にこれを奪還した。
 1568(永禄11)年、松永久秀・三好義継と三好三人衆のあいだの政権抗争の過程において、同年6月29日、三人衆方の三好康長が信貴山城を攻め落とした。しかし、同年9月の足利義昭,織田信長の上洛により、義昭方の援軍を得ることができた久秀は信貴山城を奪還する。
 1570(元亀元)年には、久秀は多聞城から信貴山城に本拠地を移した。1571(元亀2)年8月には、久秀は信貴山城から出軍し、三好義継軍とともに辰市城を攻めかかったが敗れている。
 ところが、1577(天正5)年8月、織田信長に謀反を起こした久秀は信貴山城に籠城した。信長は松井友閑を信貴山城に派遣して翻意を促したが、久秀の決意は固く、やむを得ず、信長は9月29日に信貴山城攻撃のための軍を出撃させた。10月3日には、織田信忠に率いられた織田方の軍勢が城下を焼き払い、9日には信貴山城に火の手が上がる。翌日、信忠らが本城を包囲して攻めると、ついに久秀は「天主」を自焼して自ら命を絶った。これ以後、信貴山城が使われた形跡はなく、このときに廃城になったとされる。北には松永屋敷跡がある。

【史跡規模】

【指 定】 

【国 宝】  

【国重文】

関連時代 室町時代 戦国時代
関連年号 1460年 1536年・1542年・1560年・1577年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
畠山義就 G366 木沢長政 **** 松永久秀 ****
三好義継 G466 三好康長 G466 足利義昭 G333
織田信長 OD04 松井友閑 G211 織田信忠 OD04

 

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信貴山城縄張図(『日本城郭大系』に加筆)

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雌嶽 4層の天守櫓が建っていたと推定される本丸跡 4層の天守櫓が建っていたと推定される本丸跡 空鉢堂 本丸からの遠景 本丸からの遠景