蘇我入鹿首塚

そがのいるか くびづか(Kubizuka, Grave of Severed Head of Iruka Soga)

【K-NR034】探訪日:2006/5.17・2022/8.21

【K-NR034】蘇我入鹿首塚 奈良県高市郡明日香村飛鳥682

【MAP】

〔駐車場所〕

【K-NR034】蘇我入鹿首塚

   645(皇極天皇4)年6月12日、中大兄皇子(のちの天智天皇),中臣鎌足らによる乙巳の変で、飛鳥板蓋宮の大極殿において皇極天皇の御前で殺害された蘇我入鹿の首塚とされる。
 大臣・蘇我蝦夷の子として生まれ、青少年期は僧・旻に学問堂で学んだが、堂一の秀才だったといわれる。642(皇極天皇元)年、皇極天皇の即位に伴い、父に代わって国政を掌理する。643(皇極天皇2)年11月1日、入鹿は巨勢徳多ら100名の兵に斑鳩宮の山背大兄王を襲撃させた。山背大兄王らは一旦斑鳩宮から脱出し、生駒山に逃亡したが、山背大兄王は生駒山を下り再び斑鳩寺に入り、11月11日に妃妾など一族はもろともに首をくくって自害した。蘇我蝦夷は、入鹿が山背大兄王を殺害したことに激怒したという。また、この事件については皇位継承における優位を画策する諸皇族の思惑も絡んでいたといわれる。
 644(皇極3)年11月には、蝦夷と入鹿が甘樫丘に邸宅を並べ立て、これを「上の宮門」,「谷の宮門」と称したとされるが、近年の研究によれば、これらは『日本書紀』の文飾であるとされる。むしろ、甘樫丘は飛鳥西方の防御線であり、飛鳥への入口である畝傍山東山麓の防備を固めたのも蘇我氏主導による国防強化という政策であったことが考えられる。甘樫丘東麓からは、皇居の飛鳥板蓋宮を見下ろすことはできない。
 しかし、入鹿の政治は3年足らずで乙巳の変(詳細は【P-NR001】飛鳥板蓋宮伝承地を参照)によって絶たれ、大和朝廷の有力者であった蘇我氏はその後凋落の道をたどる。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】

【国重文】

関連時代 飛鳥時代
関連年号 645年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
蘇我入鹿 SG02 中大兄皇子 K306 中臣鎌足 F001

 

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【K-NR034】蘇我入鹿首塚

【K-NR034】蘇我入鹿首塚 ※本サイトの写真は転用可です(画像をピックすると拡大、コメント表示されます)

後方は甘樫丘