山村修理墓所

やまむらしゅり ぼしょ(Grave of Shuri Yamamura)

【K-SZ032】探訪日:2023/2.4

【K-SZ032】山村修理墓所 静岡県浜松市北区細江町気賀9319

【MAP】

〔駐車場所〕

【K-SZ032】山村修理墓所

   1569(永禄12)年3月27日、本坂道の葭本で自害した山村修理の墓所である。
 前年の1568(永禄11)年12月13日、徳川家康は遠江国へ侵攻し、14日未明には井伊谷城を落とし、続けて刑部城が菅沼隊に落とされた。2月になって、日比沢城佐久城が徳川家康によって落とされたことを知った堀川城主・新田友作は、徳川方への寝返りを主張したところ、竹田高正らに殺されかかったため、金地院に逃げ込んで出家し、「喜斎」と名乗ったという(ただし、新田は、堀川城の戦い後に隠遁,出家し「法休」を名乗ったとも)。このため、竹田高正が城代となり、土豪の尾藤主膳,山村修理らは地元農民など雑兵約1,700人を集めて堀川城に立て籠もった。
 しかし1569年3月27日、本坂峠を越えてきた徳川勢によって、堀川城は一方的に殺戮された。山村修理は城を抜け出したものの、この地で燃え落ちる堀川城を見ながら切腹したと伝えられている。
 なお、竹田高正と2人の子どもは堀川城で、尾藤主膳は大沢氏の堀江城で切腹し、脱出した(していた)新田友作は37年後に徳川方に見つかり斬首された。また、この戦で気賀村,刑部村の人口3,000人のうち1,700人が立て籠もり、当日1,000人,後に女子供も含めた700人が首を刎ねられ、その首が獄門畷に並べられたとされるが、別伝では城兵108人の斬首のみとされる。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 戦国時代
関連年号 1569年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
山村修理 ****

 

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