観音寺城跡

かんのんじじょうあと(Kannonji Castle Ruins)

【C-SG006】探訪日:1990/9/22・2016/9/24

【C-SG006】観音寺城跡 滋賀県近江八幡市安土町石寺

【MAP】

〔駐車場所〕

【C-SG006】観音寺城跡

   1335(建武2)年、六角氏頼が築いたとされるが定かではない。標高432.9m、南北に伸びる繖山の山上に築かれている。南腹の斜面に曲輪を展開、家臣や国人領主の屋敷を配した。総石垣で、安土城以前の中世城郭においては特異な点とされる。
 観応の擾乱の最中の1352(観応2)年9月には、近江国にて足利直義の兵が南朝と連合して、足利尊氏方の佐々木道誉(京極高氏)や六角氏頼,直綱兄弟らを打ち破り、敗れた道誉らが当時「佐々木城」と呼ばれた観音寺城に逃げ込んで籠城している。
 また、応仁の乱では、六角高頼が西軍に属したため同族の京極持清に攻められている。応仁の乱では3度、観音寺城の攻城戦が展開されている。
 戦国時代には大幅な城の改築が行われるが、六角義賢,義治父子の頃には野良田の戦いで浅井長政に敗れ、お家騒動(観音寺騒動)に伴う家臣団の分裂などで衰退することになる。1568(永禄11)年、織田信長が足利義昭を擁して上洛の大軍を興すと六角氏は敵対し、信長に支城の箕作城と和田山城を落とされると、六角義賢,義治父子は観音寺城から逃げ無血開城した。その後、父子は観音寺城に戻ることができずそのまま廃城になったと思われている。一方で、構造的に1570年頃に改修された可能性がある石垣の跡が見られるため、観音寺城の戦い後もしばらくは織田氏の城として機能していた可能性もある。

【史跡規模】

【指 定】国指定史跡(1982年1月30日指定)
【国 宝】

【国重文】

関連時代 南北朝時代 戦国時代
関連年号 1335年・1352年 1568・1570年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
六角氏頼 G739 足利直義 G331 佐々木道誉 G7**
六角直綱 G739 六角高頼 G739 京極持清 G745
六角義賢 G739 六角義治 G739 浅井長政 ****
織田信長 OD04 六角政頼 G739

 

【C-SG006】観音寺城跡
 

 

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