平手政秀墓所〔平和公園内 政秀寺墓地〕

ひらてまさひで ぼしょ〔へいわこうえんない せいしゅうじぼち〕(Grave of Masahide Hirate [Seishu-ji Temple Cemetery in Heiwa Park])

【K-AC235】探訪日:2023/10.3

【K-AC235】平手政秀墓所 愛知県名古屋市千種区平和公園2丁目 

【MAP】

〔駐車場所〕

【K-AC235】平手政秀墓所

   1553(天文22)年閏1月13日、織田信秀,信長の2代に仕え、信長の傅役で次席家老を務めたが享年62で自刃した平手政秀の墓所である。当初は菩提寺の政秀寺にあったものを平和公園内の政秀寺墓地に移転した。なお、首塚はの東雲寺(名古屋市西区中小田井)にある。
 志賀城の城主であり、織田信秀の重臣時代は主に外交面で活躍し、茶道や和歌などに通じた文化人でもあった。信長の傅役となると、1547(天文16)年には後見役として信長の初陣を滞りなく済ませるとともに、翌年には争い中であった斎藤道三との和睦を成立させて、信長と濃姫の婚約を取りまとめた。
 信秀が死去して織田家中が不穏となるなかで自刃したが、その理由ははっきりしない。当主となった信長の奇行を憂い、自身の死で諌めたという美談もあるが、信長と政秀の長男・五郎右衛門との馬をめぐる揉め事から政秀は信長と次第に不和になり、信長の実直でない様を恨んで自刃したともされている。また、信長の弟・信行を家督継承者に推す林秀貞,通具兄弟や信行の後見人である柴田勝家との対立が原因だったとも。政秀の死後も信長の行状は改まらなかったが、信長は沢彦宗恩を開山として政秀寺を建立し、菩提を弔っている。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 戦国時代
関連年号 1533年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
平手政秀 **** 織田信長 OD04

 

【K-AC235】平手政秀墓所
  

 

【K-AC235】平手政秀墓所

【K-AC235】平手政秀墓所 ※本サイトの写真は転用可です(画像をピックすると拡大、コメント表示されます)