天方本城(天方古城)跡
あまがたほんじょう(あまがたこじょう)あと(Amagata Old Castle Ruins)
【C-SZ108】探訪日:2023/11.25・12.9
【MAP】
〔駐車場所〕
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築城年は定かではないが、1281(弘安4)年に飯田荘上郷内の亀久保・西俣に入った山内道茂から、応永年間(1394~1428年)初期、山内通弘・通秀の代に南へ進出し、天方本城を築いたとされる。山内豊後守通秀は天方氏を称したという。1401(応永8)年、山内対馬守道美は天方本城を弟の山城守に譲り、さらに南下を進めて飯田郷に城を築いた(飯田古城)。
1494(明応3)年、今川氏親は伊勢新九郎盛時(のちの北条早雲)を大将とする大軍を侵攻させ、中遠三郡(佐野郡,山名郡,周智郡)を席捲したため、天方城主の天方通季は今川氏に降った。
1501(文亀元)年、遠江守護の斯波氏は信濃の小笠原氏と連合して今川方の座王(久野)城と天方本城を攻めた。通季は一旦は斯波の大軍襲来の前に城を捨てて今川方に身を寄せたが、その後、今川方の武将の本間宗季らとともに城を奪還した。戦後、堅固な城の必要性を痛感した通季は城の南側の三倉川対岸に要害堅固な白山城を築いた。さらに戦国乱世になると、孫の天方通興が天方新城(従来の天方城)を築く。
今川義元が桶狭間に倒れると、1568(永禄11)年には甲斐の武田信玄が駿河に侵攻し、三河の徳川家康も遠江に侵攻する。遠江の国人衆が続々と徳川家康に降るなか、天方山城守通興は家康に降ることなく敵対していたため、家康は、1569(永禄12)年6月19日に榊原康政,天野康景,大久保忠隣らに天方城を攻めさせ、通興を降伏させた。
1572(元亀3)年、武田信玄が犬居城主・天野景貫の案内によって多々羅城,飯田城を攻略して天方本城に攻め寄せると、通興は開城し降伏したが、翌1573(元亀4)年3月、失地回復に出た家康は、平岩親吉を総大将とする1,000余名の軍で再び天方城と白山城を攻略した。天方通興は当初、反徳川の態度をとったが、降伏し許されている(白山城の城将だった久野宗政は甲斐へと遁走した)。1574(天正2)年4月、徳川軍は犬居城の天野氏を攻めるが、このとき案内役を務めたのが天方通興である。
天方本城は三倉川と吉川の間に位置する標高161ⅿ,比高90ⅿの本庄山(本城山)に築かれている。天方小学校,大鳥居八幡宮の北側にあたる。山頂最高部が主郭で南西側に少し低い腰曲輪を挟んで楕円状の櫓台があり、さらにその先が「馬場平」と称される広い曲輪となっている。主郭の北西へ細い尾根を進むと二の曲輪がある。また、主郭の東側の尾根にも細長い「城の腰」が伸び、横堀,腰曲輪を付けている。この尾根が城の大手にあたり登城路と考えられている。やはり全体的には戦国期後半の城砦と比べると加工度は低い。