大井戸渡古戦場(承久の乱)

おおいどのわたり こせんじょう(じょうきゅうのらん)(Historic Battlefield of Oidonowatari [the Jokyu War])

【B-GF008a】探訪日:2024/3.15

【B-GF008a】大井戸古戦場 岐阜県可児市土田

【MAP】

〔駐車場所〕かに木曽川左岸公園の駐車場を利用する。

   1221(承久3)年6月5日、承久の乱における鎌倉幕府軍と朝廷軍の戦いの火ぶたが切られた場所である。
 同年5月15日、後鳥羽上皇が執権・北条義時追討の院宣を出すと、19日には上皇挙兵の報が鎌倉に届けられ、鎌倉幕府軍は三手(東海道軍,東山道軍,北陸道軍)に分かれて京都に進軍する。これを迎え撃つべく、朝廷軍は木曽川沿いに兵力を分散させて広く配置した(兵力分散が敗因となった)。
 6月5日、幕府東山道軍5万余騎を率いた甲斐源氏の武田信光,小笠原長清はこのまま幕府軍に付くか朝廷軍に寝返るか迷っていたが、北条時房からの恩賞提示の書状が届き、一気に大井戸渡に布陣する大内惟信率いる京方2000騎に襲い掛かった。子の惟忠を討たれた大内惟信は戦場から逃亡、蜂屋入道は負傷して自害、その子・蜂屋三郎も戦死し、五条有長,糟屋久季は負傷して後方に下がるなど、もともと数で勝る幕府軍の圧勝に終わった。勢いに乗った東山道軍は下流の鵜沼渡に向けて進軍を開始した。この大井戸での戦いを皮切りに、鵜沼渡,板橋,池瀬,摩免戸(大豆戸)など木曽川沿いの各所で合戦が始まった。
 戦場は現在の中濃大橋付近とされ、橋の北側にある虚空蔵堂辺りが戦場の北端といわれている。かに木曽川左岸公園と太田宿中山道会館の南に説明板がある。また、かに木曽川左岸公園の西南にある弘法堂には戦死者の供養塔が集められている。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 鎌倉時代
関連年号 1221年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
武田信光 G427 小笠原長清 G451 小山朝長 FU16
結城朝光 FU23 大内惟信 G491 大内惟忠 G491
蜂屋入道 F*** 蜂屋三郎 **** 五条有長 SW04
糟屋久季 ****

 

【B-GF008a】大井戸古戦場
  

 

【B-GF008a】大井戸古戦場

 

承久の乱での鎌倉幕府軍進路(各務原市歴史民俗資料館パンプレットに加筆)

 

承久の乱  尾張川(木曽川)の戦い(1221年6月5,6日)

合戦地

大井戸渡

鵜沼渡

板橋

気勢(池瀬)

大豆戸(摩免戸)

上瀬

墨俣

幕府軍

東山道軍:5万余騎

東海道軍:10万余騎

50,000余騎

100,000余騎

武田信光

小笠原長清

小山朝長

結城朝光

毛利季光

野村宗茂

足利義氏

狩野宗茂

北条泰時

三浦義村

北条時氏

大江佐房

波多野経朝

三善康知

北条時房

朝廷軍

2万余騎

2,000余騎

1,000余騎

1,000余騎

1,000余騎

10,000余騎

1,000余騎

大内惟信/惟忠

蜂屋入道/三郎

五条有長

糟屋久季

斎藤親頼

神地頼経

荻野景員

山田重継

朝日頼清

関 政綱

土岐国衡

関田重国

藤原秀康

三浦胤義

小野盛綱

佐々木広綱

山田重忠

鏡 久綱

源 翔

藤原秀澄

山田重忠

赤字はこの戦いでの戦死者。このほか、稗島,食渡,市河前では朝廷軍は戦わずして退却

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かに木曽川左岸公園にある説明板 太田宿中山道会館の南にある説明板 説明板があるかに木曽川左岸公園 朝廷軍側から見た対岸(虚空蔵堂の南から見る) 朝廷軍側から見た対岸(虚空蔵堂の南から見る) 朝廷軍側から見た対岸 朝廷軍側から見た対岸(虚空蔵堂の南から見る) 朝廷軍側から見た対岸(中山道会館の南から見る) 朝廷軍側から見た対岸(中濃大橋上から見る) 幕府軍側 幕府軍側 幕府軍側 幕府軍側(中濃大橋上から上流側を見る) 幕府軍側(中濃大橋上から下流側を見る) 幕府軍側 虚空蔵堂 虚空蔵堂 弘法堂の供養塔 弘法堂の供養塔 弘法堂の供養塔