鳥居強右衛門磔死趾〔長篠古戦場〕

とりいすねえもん はりつけしあと〔ながしのこせんじょう〕

(Place Where Suneemon Torii Was Crucified [Historic Battlefield of Nagashino])

【B-AC004b01】探訪日:2019/4/6

 愛知県新城市有海篠原21−50

  【MAP】

〔駐車場所〕

   1575(天正3)年5月8日、三河に侵攻した武田勝頼は1万5,000の兵で長篠城を包囲攻撃した。5日ほど持ちこたえたものの、あと数日で落城という絶体絶命の状況下で城主の奥平貞昌は、徳川家康のいる岡崎城へ使者を送り、援軍を要請しようと決断した。この命がけの役目を自ら志願したのが鳥居強右衛門であった。14日の夜陰に乗じて城の下水口から出発し、15日午後に岡崎城にたどり着き、援軍派遣を要請した。このときすでに織田徳川連合軍3万8,000が翌日にも長篠へ向けて出発する手筈となっていた。これを知り喜んだ強右衛門は、この朗報を一刻も早く味方に伝えようと、すぐに長篠城へ向かって引き返したが、16日早朝、長篠城近くの有海村で武田軍の兵に捕らえられてしまう。
 武田軍は強右衛門に「援軍は来ないからあきらめて城を明け渡すべき」と虚偽の情報を城に伝えるよう命令するが、承諾を装った強右衛門は長篠城の西岸の見通しのきく場所へと引き立てられると、「あと二,三日で援軍が来るからそれまで持ちこたえろ」と城に向かって叫んだ。そのため強右衛門は、その場で殺された。    
 強右衛門が磔にされるまでのわずかな間、監視役であった武田家の家臣落合左平次道久は、強右衛門の忠義心に感動し、磔にされている強右衛門の姿を絵に残して旗指物として使ったという。
 なお、『総見記』『常山紀談』『長篠日記』には、鈴木金七郎重政が強右衛門と共に長篠城を脱出し、岡崎城への使者となった旨が記されている。金七郎はそのまま岡崎城に残り、強右衛門のように英雄として名を残すことはなかった。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 戦国時代
関連年号 1575年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
奥平貞昌 KD13 鳥居強右衛門 **** 落合道久 ****
鈴木金七郎重政 ****

 

 

 

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【B-AC004b01】鳥居強右衛門磔死趾〔長篠古戦場〕

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【B-AC004b01】鳥居強右衛門磔死趾〔長篠古戦場〕

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▲長篠城からの強右衛門磔死趾(雑木で見えず)