梶原景時終焉の地(梶原山)
かじわらかげときしゅうえんのち(かじわらやま)(Death Site of Kajiwara Kagetoki [Mt. Kajiwara])
【Z-SZ014】探訪日:2025/3.24
静岡県静岡市葵区長尾1134
【MAP】
〔駐車場所〕山頂付近に駐車場がある。
1200(正治2)年正月、鎌倉を脱し上洛の途次に駿河国在地の武士たちとの戦闘に敗れた梶原景時が自害した西奈の山上である(その後、梶原山と呼ばれる)。
景時は1180(治承4)年8月の石橋山の戦いで源頼朝を助けた(見逃した)ことで、のちに鎌倉幕府の要職に就く。弁舌が立ち、教養のある景時は頼朝に信任された。しかし、源義経に対するいわゆる「梶原景時の讒言」や畠山重忠,和田義盛に対する奸計などで御家人たちからひどく恨まれた。
1199(正治元)年正月に頼朝が死去すると、景時は引き続き宿老として2代将軍・源頼家に重用された。4月には十三人の合議制が置かれ、景時もこれに列したが、他の御家人たちとの溝は深まり、三浦義村,和田義盛ら諸将66名による景時排斥を求める連判状が頼家に提出された。11月、頼家は景時に連判状を下げ渡すと、景時は弁明せずに一族とともに所領の相模国一ノ宮の館に退いた。
1200(正治2)年正月、景時は一族を率いて上洛すべく相模国一ノ宮より出立した。途中、駿河国清見関にて偶然居合わせた吉川友兼ら在地の武士たちと戦闘になり、同国狐崎にて嫡子・景季,次男・景高,3男・景茂が討たれ、景時は付近の西奈の山上にて自害。一族33人が討ち死にした。梶原一族滅亡の地は梶原山と呼ばれている。なお、景時が上洛した理由は、都の武士として朝廷に仕えようとしていたと見られている。