福島正則生誕の地
ふくしままさのり せいたんのち(Birthplace of Fukushima Masanori)
【Z-AC018】探訪日:2025/3.20
愛知県あま市二ツ寺屋敷172
〔駐車場所〕石碑前に駐車スペースがある。
1561(永禄4)年、尾張国海東郡二ツ寺村で桶屋を営む福島正信(正光)の長男として生まれたという。屋敷跡は碑の西方にあったとされる。しかし、父・正信は義父であったともいわれ、実父は同国春日井郡の清洲村界隈の星野成政で福島正信の養子になったとの説もある。母は、豊臣秀吉の母の妹にあたる人物である。その縁から幼少より小姓として秀吉に仕え、天正6年(1578年)に播磨三木城の攻撃で初陣を飾る。秀吉のもとでは多くの戦功を挙げ、賤ヶ岳の戦いでは、賤ヶ岳の七本槍の一番手であった。
秀吉死後は、石田三成と険悪になり、家康の昵懇大名の一人となる。慶長5年(1600年)の会津征伐には6,000人を率いて従軍。上方で三成が挙兵すると、小山評定では、いち早く家康の味方につくことを誓約した。
戦後、安芸広島と備後鞆49万8,000石を得た(広島藩)。芸備に入封した正則は、善政を敷き、また慶長7年(1602年)には厳島神社の平家納経を修復させている。ただ、豊臣秀頼の見舞いや説得など豊臣家を主筋に立てることも忘れなかった。大坂冬の陣,夏の陣ともに江戸留守居役を命じられたが、嫡男の福島忠勝が兵を率いて幕府軍に加わった。
家康死後の元和5年(1619年)、台風による水害で破壊された広島城の修繕をめぐり幕府から咎められたことをきっかけに、将軍・徳川秀忠は安芸・備後50万石を没収し、信濃国川中島四郡中の高井郡と越後国魚沼郡の4万5,000石(高井野藩)に減転封した。移封後は嫡男・忠勝に家督を譲ったが、忠勝が早世したため、正則は2万5,000石を幕府に返上し、1624(寛永元)年に高井野で死去した。享年64。幕府の検死役が到着する前に、家臣の津田四郎兵衛が遺体を火葬したため残りの2万石も没収されたお家断絶となる。
誕生地碑の北へ120mほど行ったところに菩提寺である菊泉院があり、正則の供養塔が建つ。