宮本武蔵・吉岡一門決闘の地(一乗寺下り松)
みやのとむさし・よしおかいちもん けっとうのち(いちじょうじ さがりまつ)
(The Place of Duel Between Miyamoto Musashi and Yoshioka Family [Ichijoji Sagari-matsu])
【Z-KT004】探訪日:2015/11.7
京都府京都市左京区一乗寺花ノ木町
【MAP】
〔駐車場所〕
1604(慶長9)年、剣豪・宮本武蔵が吉岡一門数十人と決闘を行ったとされる伝説の地である。
ここは「一乗寺下がり松」として知られており、曼殊院道と狸谷不動明王道の分岐点で、古くは平安時代から、京から比叡山や近江国に通じる交通の要衝であり、旅人の目印として松の木が植え継がれてきた。平安時代中期から南北朝時代頃までの間、同地にあった一乗寺にちなんで名付けられている。
決闘については一部、真偽不明な点も残るものの、以下の経緯,経過と言われている。
吉岡清十郎は、かつて足利義昭の面前で、父・吉岡憲法が宮本武蔵の父・新免無二に敗れた遺恨を果たすため、京へ下ってきた宮本武蔵との決闘を申し出る。武蔵は、木刀の一撃で清十郎の肩を打ち折ったことで勝利する。敗れた清十郎は板に載せられ、弟子に運ばれて吉岡道場に戻った。その後、治療を受けた清十郎は、剣を捨てて出家した。
洛外蓮台野において足利将軍家の剣術師範として名をはせ「扶桑第一兵術者」を号していた吉岡家の道場では、清十郎の弟の吉岡伝七郎が仇討ちのため、宮本武蔵との決闘を申し出た。そして、洛外にて武蔵と伝七郎とが戦うが、戦いの中で伝七郎の五尺の木刀を武蔵が奪い取り、その木刀をもって武蔵が伝七郎を打ち殺したことにより武蔵の勝利に終わる。
当主・吉岡清十郎,弟・伝七郎が敗れた吉岡道場では、足利将軍家剣術師範が一介の武芸者に続けて敗れたという評判が広がるのを避けるため、今度は一乗寺下り松において、吉岡清十郎の子である吉岡亦七郎と宮本武蔵の決闘を申し出る。しかし、亦七郎はまだ幼く、吉岡道場側では、決闘の場に弓,鉄砲で武装させた吉岡道場の門弟を忍ばせ、これら全員でかかって宮本武蔵を討ち取ろうと考えた。
この事実を知った武蔵は、一乗寺下り松の約250m東側にある八大神社に立ち寄り戦勝を祈願しようと考えたが、拝殿前で、神仏は尊むものであり神仏に頼る弱い心を持っては戦で勝つことはできないと考え直し、そのまま八大神社で祈ることなく一乗寺下り松まで下りていき、伝七郎を含む吉岡一門を一人で打ち倒したという。
なお、「一乗寺下がり松」には『宮本 吉岡 決闘之地』碑と隣接して、『大楠公戦陣蹟』碑(足利尊氏と戦った楠木正成の陣所跡)が建てられている。
【史跡規模】 |
【指 定】 |
関連時代 | 江戸時代:前期 |
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関連年号 | 1604年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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宮本武蔵 | **** | 吉岡清十郎 | **** | 吉岡伝七郎 | **** |
吉岡亦七郎 | **** |