長谷寺
はせでら(Hase-dera Temple)
【T-NR049】探訪日:2025/11.7
奈良県桜井市初瀬731-1 <📲:0744-47-7001>
【MAP】
〔駐車場所〕
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奈良時代8世紀前半の創建と推定されるが、創建の詳しい時期や事情は不明である。寺伝によれば、686(朱鳥元)年に僧の道明が初瀬山の西の丘(本長谷寺が建てられている場所)に天武天皇の銅板法華説相図を安置し三重塔を建立、続いて727(神亀4)年に僧の徳道が聖武天皇の勅命により東の丘(現在の本堂の地)に近江国高島郡から流れ出でた霊木で本尊の十一面観音像を作成し祀ったという。しかし、これらに関しては正史に見えず伝承の域を出ない。創建当時の長谷寺は東大寺(華厳宗)の末寺であったが、平安時代中期には興福寺(法相宗)の末寺となり、16世紀以降は覚鑁(興教大師)によって興され頼瑜僧正により成道した新義真言宗の流れをくむ寺院となっている。
847(承和14)年12月21日に定額寺に列せられ、858(天安2)年頃に官寺と認定されて別当が設置されたとみられている。朝廷(太政官)の統制下に置かれ、10世紀以後の長谷寺再建に際しては国家的事業として位置づけられている。平安時代中期以降は、観音霊場として貴族の信仰を集め、1024(万寿元)年には藤原道長が参詣しており、中世以降は武士や庶民にも信仰を広めた。
大和国と伊勢国を結ぶ初瀬街道を見下ろす初瀬山の中腹に本堂(国宝)が建つ。本堂は奈良時代の創建後、1536(天文5)年までに計7回焼失し、1588(天正16)年には豊臣秀長の援助で新しい堂が竣工した。ただ、現存の本堂は、徳川家光の寄進を得て1650(慶安3)年に落慶したものである。中井大和守を中心とする大工集団による施工であった。本尊を安置する正堂,参詣者のための礼堂,両者をつなぐ相の間から成る巨大な建築で、前面は京都の清水寺本堂と同じく懸造になっている。
本尊の十一面観音像(重要文化財)は1538(天文7)年に再興された。高さは10mを超え、国宝・重要文化財指定の木造彫刻の中では最大のものである。通常の十一面観音像と異なり、右手には数珠とともに地蔵菩薩の持つような錫杖を持ち、方形の磐石の上に立つ姿である。伝承によれば、これは地蔵菩薩と同じく自ら人間界に下りて衆生を救済して行脚する姿を表したものとされ、他の宗派には見られない独特の形式であり、「長谷寺式十一面観音(長谷型観音)」と呼ばれている。
初瀬山の山麓から中腹にかけて伽藍が広がる。入口の仁王門から本堂までは399段の登廊を上る。本堂の西方の丘には本長谷寺と称する一画があり、五重塔などが建つ。登廊は1039(長暦3)年に春日社の社司・中臣信清が我が子の病気平癒の御礼で寄進したとされるが、現存するものは近世以降の再建である。現存する蔵王堂,上登廊,三百余社,鐘楼,繋廊は本堂と同じ時期の建立。仁王門,下登廊,繋屋,中登廊の4棟は1882(明治15)年の火災焼失後の再建で、仁王門は1885(明治18)年、下登廊,繋屋,中登廊は1889(明治22)年の建立である。1667(寛文7)年に徳川家綱の寄進で建立された本坊は、1911(明治44)年に表門を残して全て焼失し、1924(大正13)年に再建されている。
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【史跡規模】
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【指 定】 【国 宝】 ・本堂:本尊の十一面観音立像を安置、1650年に徳川家光により再建 ・銅板法華説相図 (千仏多宝仏塔):698年の作 ・法華経(28巻),観普賢経(1巻),無量義経(3巻),阿弥陀経(1巻),般若心経(1巻) 計34巻(附:蒔絵経箱) 【国重文】 ・長谷寺 9棟(繋廊,三百余社,鐘楼,登廊5棟,仁王門) ・長谷寺本坊 8棟(大講堂,大玄関及び庫裏,奥書院,小書院,護摩堂,唐門及び回廊,中雀門,土蔵) |
| 関連時代 | 飛鳥時代 | 奈良時代 | 戦国時代 | 江戸時代:前期 |
| 関連年号 | 686年 | 727年 | 1538年 | 1650年 |
| 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
| 道明 | **** | 徳道 | **** | 中臣信清 | NT** |
| 豊臣秀長 | ZZ01 | 徳川家光 | TG03 | 徳川家綱 | TG03 |
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長谷寺境内案内図