八坂神社
やさかじんじゃ(Yasaka Shrine)
【S-KT003】探訪日:2003/10.16・2025/10.13
京都府京都市東山区祇園町北側625 <📲:075-561-6155>
【MAP】
〔駐車場所〕
![]()
通称、祇園さんや八坂さんとも呼ばれる。祇園祭(祇園会)の胴元としても知られる。元の祭神であった牛頭天王が祇園精舎の守護神であるとされていたことから、もともと祇園神社,祇園社,祇園感神院などと呼ばれていたものが、1868年(慶応4/明治元)年の神仏分離令により「八坂神社」と改名された。現在の祭神は、主祭神として中御座に素戔嗚尊、東御座に櫛稲田姫命(素戔嗚尊の妻)、そして西御座には素戔嗚尊の8人の子どもを総称して八柱御子神 を祀り、配神に神大市比売命,佐美良比売命(いずれも素戔嗚尊の妻で東御座に同座)と稲田宮主須賀之八耳神(西御座に御座)である。
創建については2つの説がある。656(斉明天皇2)年に高句麗の使・伊利之使主が来朝したとき新羅国の牛頭山の須佐之雄尊を祭るために創建という説、そして、876(貞観18)年に南都の僧・円如が当地にお堂(観慶寺)を建立し、同じ年に天神(祇園神)が東山の麓の祇園林に降り立ったことに始まるという説である。今日においては、後者の説が一定の支持を得ている。祭神は当初は「祇園天神」または「天神」とだけ呼称されており、牛頭天王(およびそれに習合した素戔嗚尊)の名が文献上は出てこないことから、最初は牛頭天王・素戔嗚尊とは異なる天神が祭神であり、やがて(遅くとも鎌倉時代には)牛頭天王と素戔嗚尊が相次いで習合したものと考えられている。
当初は興福寺、次いで延暦寺の支配を受けていたことから、神社ではなく寺とみなされていたが、後に二十二社の一社になっており、神社としても見られるようになる。平安時代中期頃から一帯の産土神として信仰されるようになり、朝廷からも篤い崇敬を受けた。
祇園祭は、869(貞観11)年に各地で疫病が流行した際に神泉苑で行われた御霊会を起源とするもので、877(元慶元)年には当社で行われている。970(天禄元)年頃からは当社の祭礼として毎年行われるようになった。
934(承平4)年に観慶寺の子院として感神院が建立されると、まもなく感神院が祇園社の別当寺となり、ますます神仏習合が進んでいき、名称も祇園社のほかに祇園感神院と呼ばれるようになった。また、当社は長らく法相宗の興福寺の末社であったが、10世紀末、紛争により天台宗の延暦寺の末寺とされた。
1070(延久2)年、感神院は鴨川の西岸の広大の地域を境内として認められ、朝廷権力からの不入権を承認された。この頃から祇園感神院は紀氏一族が執行家として世襲支配するようになる。
1072(延久4)年3月の後三条天皇の行幸以降、度々天皇や上皇による行幸・御幸が行われている。
1384(至徳元)年、足利義満は、祇園社を比叡山延暦寺から分離させた。だが、それで祇園社が幕府配下となったわけではなく、以降、祇園祭は経済的に力をつけていた京の町衆により行われるようになり、現在に至っている。
1571(元亀2)年9月に織田信長によって行われた比叡山焼き討ちで延暦寺が焼亡すると、祇園社はより延暦寺の支配から離れるようになった。
1590(天正18)年には、豊臣秀吉が母の大政所の病気平癒を当社に祈願し、多宝塔を再建して1万石を寄進している。多宝塔は寛政年間(1789~1801年)に焼失した。
明治の神仏混交禁止・神仏分離により感神院は廃寺とされ、本殿の西隣にあった観慶寺薬師堂も取り壊された。なお、薬師堂に祀られていた祇園社本地仏の薬師如来立像(重要文化財)と十一面観音立像は大蓮寺に、梵鐘は大雲院に移されている。それに伴い、名称も祇園感神院,祇園社から八坂神社へ改められた。
本殿は、 1654(承応3)年に徳川家綱により再建されたもので、2020(令和2)年12月23日に国宝に指定された。本殿の下には平安京の東の鎮めである青龍の棲む龍穴があるとされているが、現在は漆喰で固められている。このほか、摂社末社など26棟の建造物も重要文化財に指定されている。
|
【史跡規模】
|
【指 定】 【国 宝】本殿(2020年12月23日指定) 【国重文】・八坂神社 29棟 |
| 関連時代 | 飛鳥時代 | 平安時代:初期 | 安土桃山時代 | 江戸時代:前期 |
| 関連年号 | 656年 | 876年 | 1590年 | 1654年 |
| 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
| 円如 | **** | 豊臣秀吉 | ZZ01 | 徳川家綱 | TG03 |
![]()