西寺跡
さいじあと(Sai-ji Temple Ruins)
【T-KT060】探訪日:2025/10.13
京都府京都市南区唐橋西寺町57
【MAP】
〔駐車場所〕
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平安京の右京九条一坊にあった官寺で、羅城門西側にあり、東側の東寺と対をなしていた。東西両寺の造立がいつ頃始まったかは定かではないが、『類聚国史』の797年5月4日(延暦16年4月4日)条に笠江人が造西寺次官として記載されているのが記録上の初見であり、815(弘仁6)年に造西寺司が任命されて以降、関連人事記録は見られないことから、これ以降に一応の完成をみたとされている。 823(弘仁14)年には東寺は空海、西寺は守敏に下賜されたとされるが、定かではない。832(天長9)年に講堂が完成した。その後、864(貞観6)年までに薬師寺から僧綱所が西寺に移転された。『醍醐寺縁起』には906(延喜6)年に聖宝が西寺別当となったという記述があり、西寺の整備を行ったとある。これ以降、他寺出身者が西寺の別当となることがはじまった。
990(正暦元)年に火災があったが、ほどなく再建されたと見られる。建久年間(1190年代)には文覚が塔の修理を行った。しかし、その後は荒廃し、再建された塔も1233(天福元)年に再び焼失、以降に廃寺になったと考えられている。しかし、『二水記』の1527年12月7日(大永7年10月27日)条に「西寺に陣を敷いた」という記録があることから、戦国時代の中期頃まで西寺は存続していたと推測している。
西寺の衰退原因は立地である右京の水はけが悪く、平安後期には住民がいなくなったために環境が悪化したことや、朝廷の支援を受けられなくなったことも指摘されている。
1959(昭和34)年からの発掘調査により、金堂,廻廊,僧坊,食堂院,南大門等の遺構が確認されている。なお、唐橋西寺公園の中央にある遺構は講堂跡とされる。史跡の範囲は、唐橋小学校敷地,唐橋西寺公園敷地,同公園以北・東寺通以南の民有地と、これらの西側の道路。公園の南西方向には五重塔があった(発掘調査中)。
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【史跡規模】
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【指 定】国指定史跡(1921年3月3日指定,1966年3月22日追加指定) |
| 関連時代 | 平安時代:前期 | 鎌倉時代 |
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| 関連年号 | 797年・823年・832年 | 1233年 |
| 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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| 笠 江人 | RY01 | 守敏 | **** | 聖宝 | **** |
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