元興寺(旧称:元興寺極楽坊)
がんごうじ(きゅうしょう:がんごうじごくらくぼう)(Gango-ji Temple [former name ; Gango-ji Gokurakubo] )
【T-NR005a】探訪日:2025/12.13
奈良県奈良市中院町11
【MAP】
〔駐車場所〕
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710(和銅3)年の平城京遷都に伴い、飛鳥にあった薬師寺,厩坂寺(のちの興福寺),大官大寺(のちの大安寺)などとともに、法興寺(飛鳥寺)も718(養老2)年に平城京内に移転した。南都七大寺の1つ。ただ、飛鳥の法興寺は廃止されずに元の場所に残り、通常、飛鳥にある寺を「法興寺」「本元興寺」、平城京の寺を「元興寺(新元興寺)」と称し区別している。
奈良時代には三論宗と法相宗の道場として栄え、東大寺や興福寺と並ぶ大伽藍を誇っていた。伽藍は、南大門,中門,金堂(本尊は弥勒菩薩),講堂,鐘堂,食堂が南北に一直線に並び、中門左右から伸びた回廊が金堂を囲み、講堂の左右に達していた。回廊の外側、東には五重塔を中心とする東塔院、西には小塔院があった(小塔院には、国宝の五重小塔が屋内に安置されていたものと思われる)。講堂の背後左右には、数棟ずつの僧房があり、東西に長い長屋のような建物で、このうち東側手前にあった僧房を1244(寛元2)年に改造したものが、現存する極楽坊の本堂と禅室である。
寺域は南北4町(約440m),東西2町(約220m)と南北に細長く、興福寺の南にある猿沢池の南方、現在の「ならまち」と通称される地区の大部分が元興寺の境内であった。
平安京に遷都後も南都仏教界においては東大寺,興福寺が勢力を増す一方で、元興寺は平安時代中期(10〜11世紀)以降は徐々に衰退していった。1246(寛元4)年の記録では、五重塔の四,五重目と相輪が失われ、南大門,鐘楼が大破していたという。1451(宝徳3)年、土一揆による焼き討ちによって小塔院が炎上すると、炎は元興寺全体に広がった。五重塔などはかろうじて残ったが、金堂など主要堂宇や智光曼荼羅の原本は焼けてしまった。金堂は再建されたが、1472(文明4)年の大風で倒壊し、これ以降金堂は再建されなかった。
その後、焼け跡には住宅が建てられていったこともあり、この頃を境に、寺は智光曼荼羅を奉安する極楽堂(曼荼羅堂)を中心とした「極楽院」(極楽坊)、五重塔を中心とした「観音堂」(現・塔跡)、それに「小塔院」という3つの寺院に分裂した。
このサイトでは、極楽坊について記す。極楽院は1955(昭和30)年に「元興寺極楽坊」と改称、さらに1977(昭和52)年に「元興寺」と改称されている。
元興寺には奈良時代の学僧・智光が描かせた極楽浄土の変相図「智光曼荼羅」があり、平安時代後期頃から末法思想の流行や阿弥陀浄土信仰の隆盛とともにこの曼荼羅が信仰を集めるようになった。曼荼羅を奉安する堂が「極楽院」(現・極楽堂)で、次第に元興寺本体とは別の寺院として発展するようになった。現存する元興寺極楽坊の本堂と禅室は、奈良時代に智光をはじめとする僧たちが住んでいた僧房を鎌倉時代に改築したものである。
極楽院は明治以降は荒れ果て、本堂も1950(昭和25)年頃までは床は落ち、屋根は破れて「化け物が出る」と言われたほどの荒れ方であった。現在の姿に生まれ変わるのは戦後のことであり、住職・辻村泰圓の尽力によるところが大きい。
境内の本堂・極楽堂(極楽坊本堂,曼荼羅堂とも)には本尊の智光曼荼羅図を厨子内に奉安する。禅室は切妻造,瓦葺で本堂の西に軒を接して建つ。もとは本堂も含んで東西に長いひと続きの僧房であったものを鎌倉時代に改築したものである。なお、2010(平成22)年8月には、禅室の一部に使用されている木材が世界最古の現役木製建築部材であることが確認された。
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【史跡規模】
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【指 定】・国指定史跡(1965年2月22日指定) |
| 関連時代 | 奈良時代 | 鎌倉時代 | 室町時代 |
| 関連年号 | 718年 | 1244年 | 1451年 |
| 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
| 智光 | **** |
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