元興寺(元興寺塔跡)

がんごうじ(がんごうじとうあと)(Gango-ji Temple [Gango-ji Pagoda Ruins] )

【T-NR005b】探訪日:1995/4.1・2025/12.13

【T-NR005b】元興寺(元興寺塔跡) 奈良県奈良市芝新屋町12

【MAP】

〔駐車場所〕

【T-NR005b】元興寺(元興寺塔跡)

   710(和銅3)年の平城京遷都に伴い、飛鳥にあった薬師寺,厩坂寺(のちの興福寺),大官大寺(のちの大安寺)などとともに、法興寺(飛鳥寺)も718(養老2)年に平城京内に移転した。南都七大寺の1つ。ただ、飛鳥の法興寺は廃止されずに元の場所に残り、通常、飛鳥にある寺を「法興寺」「本元興寺」、平城京の寺を「元興寺(新元興寺)」と称し区別している。
 奈良時代には三論宗と法相宗の道場として栄え、東大寺や興福寺と並ぶ大伽藍を誇っていた。伽藍は、南大門,中門,金堂(本尊は弥勒菩薩),講堂,鐘堂,食堂が南北に一直線に並び、中門左右から伸びた回廊が金堂を囲み、講堂の左右に達していた。回廊の外側、東には五重塔を中心とする東塔院、西には小塔院があった(小塔院には、国宝の五重小塔が屋内に安置されていたものと思われる)。講堂の背後左右には、数棟ずつの僧房があり、東西に長い長屋のような建物で、このうち東側手前にあった僧房を1244(寛元2)年に改造したものが、現存する極楽坊の本堂と禅室である。
 寺域は南北4町(約440m),東西2町(約220m)と南北に細長く、興福寺の南にある猿沢池の南方、現在の「ならまち」と通称される地区の大部分が元興寺の境内であった。
 平安京に遷都後も南都仏教界においては東大寺,興福寺が勢力を増す一方で、元興寺は平安時代中期(10〜11世紀)以降は徐々に衰退していった。1246(寛元4)年の記録では、五重塔の四,五重目と相輪が失われ、南大門,鐘楼が大破していたという。1451(宝徳3)年、土一揆による焼き討ちによって小塔院が炎上すると、炎は元興寺全体に広がった。五重塔などはかろうじて残ったが、金堂など主要堂宇や智光曼荼羅の原本は焼けてしまった。金堂は再建されたが、1472(文明4)年の大風で倒壊し、これ以降金堂は再建されなかった。
 その後、焼け跡には住宅が建てられていったこともあり、この頃を境に、寺は智光曼荼羅を奉安する極楽堂(曼荼羅堂)を中心とした「極楽院」(極楽坊)、五重塔を中心とした「観音堂」(現・塔跡)、それに「小塔院」という3つの寺院に分裂した。
 このサイトでは、通称「元興寺塔跡」と呼ばれる元興寺について記す。元興寺五重塔・観音堂(中門堂)の系譜を引き、本尊は十一面観音(中門観音)である。1451(宝徳3)年の土一揆による焼き討ち以後、寺は3つの寺院に分裂し、観音堂はやがて東大寺の末寺となり、五重塔を中心とする寺院として維持されていた。五重塔は奈良時代に建立された高さ72mとも57mともいわれる巨大なもので、東寺の五重塔(54.8m)より高い。しかし、前述の土一揆でも焼け残った創建遺構の五重塔及び観音堂であったが、1859(安政6)年の町屋から出た火災に巻き込まれて焼失した。補修中の最上部の屋根(瓦無し)に延焼し上方から燃え落ちたため、まるで蝋燭のようであったという。以後、五重塔は再建されることはなく、「元興寺」の寺号は継ぐものの衰微している。現在の本堂である観音堂は1930(昭和5)年に再興された。
 また、境内には奈良市内で2番目に古いとされる1257(正嘉元)年銘の啼燈籠がある。1944(昭和19)年の地震で倒壊したが、2010(平成22)年に元通りに修復された。

【史跡規模】

【指 定】・国指定史跡:元興寺塔跡(1932年4月25日指定)
【国 宝】・木造薬師如来立像(平安前期の作:奈良国立博物館寄託)
【国重文】・木造十一面観音立像(奈良国立博物館寄託)
rrrrr・元興寺塔址土壇出土品 玉類銅銭等一括(奈良国立博物館寄託)

関連時代 奈良時代 室町時代 江戸時代:後期
関連年号 718年 1451年 1859年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図


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 本堂内にみえた説明員の方には、かなり詳細な説明をしていただき、たいへん参考になりました。このあと、極楽坊を拝観しましたが、両元興寺の位置づけを理解したうえで見学することができました。


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【T-NR005b】元興寺(元興寺塔跡) ※本サイトの写真は転用可です(画像をピックすると拡大、コメント表示されます)

元興寺塔跡 元興寺塔跡 啼燈籠 本堂前礎石(飛鳥寺から搬入の可能性あり) 本堂前礎石(飛鳥寺から搬入の可能性あり) 本堂(観音堂) 鐘楼 鐘楼礎石