寿桂尼墓所〔龍雲寺〕
じゅけいに ぼしょ〔りゅううんじ〕(Grave of Jukeini [in Ryuun-ji Temple])
【K-SZ080】探訪日:2026/4.12
静岡県静岡市葵区沓谷3丁目10-1
【MAP】
〔駐車場所〕門を入った奥に参詣者用駐車場がある。
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1568(永禄11)年3月14日、今川氏没落の最中に今川館にて死去した寿桂尼の墓所である。谷津山の北麓の龍雲寺墓地の奥にある。隣には山科言綱の正室であった妹の黒木の方が眠る。
寿桂尼は中御門宣胤の娘であるが、生年ははっきりしない。1505(永正2)年もしくは1508(永正5)年に今川氏親に嫁ぎ、吉良義堯室,長男の氏輝,次男の彦五郎,中御門宣綱室,北条氏康室,5男の義元を出産した。ただし、義元については異論も出されている。
長く病床にあった夫の氏親の政治を補佐・代行しており、今川氏の分国法である『今川仮名目録』の作成にも関与していたともいわれている。
1526(大永6)年6月、氏親が病死すると、剃髪して翠光院寿桂(後に長膳院)と号し、「大方殿」「尼御台」と称された。家督を継いだ氏輝はまだ14歳という若年であり、氏輝が16歳になるまでの2年間は、寿桂尼は自身の「歸」の印判を用いて公的文書を発給し、今川氏の国務を取り仕切った。
1536(天文5)年3月、氏輝,彦五郎が相次いで死去すると、寿桂尼は、出家して栴岳承芳と名乗っていた義元を還俗させ、側室の子である玄広恵探との間で家督争い(花倉の乱)が起こる。義元が乱を制して家督を継ぐと、これを補佐した。1560(永禄3)年5月、義元が桶狭間の戦いで織田信長に敗れて戦死し、孫の氏真が当主となった後も政治に関わっている。
80歳近くで生涯を閉じた寿桂尼は、「死しても今川の守護たらん」と遺命し、今川館の鬼門である東北の方角にあたる自らが開基した龍雲寺に埋葬された。しかし、その翌年1569(永禄11)年には、戦国大名としての今川氏は滅びることになる。
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【史跡規模】
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【指 定】静岡市指定史跡(1962年10月19日指定) 【国 宝】 【国重文】 |
| 関連時代 | 戦国時代 |
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| 関連年号 | 1568年 |
| 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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寿桂尼(中御門宣胤女) | F482 | 黒木の方(中御門宣胤女) | F482 |
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寿桂尼(正林寺蔵)