由井正雪首塚〔菩提樹院〕

ゆいしょうせつ くびづか〔ぼだいじゅいん〕(Kubizuka, Grave of Severed Head of Yui Shosetsu [in Bodaiju-in Temple])

【K-SZ081】探訪日:2026/4.12

【K-SZ081】由井正雪首塚 静岡県静岡市葵区沓谷

【MAP】

〔駐車場所〕

【K-SZ081】由井正雪首塚

   由井正雪の乱(慶安の変)の首謀者であったが、幕府へ計画が露見し駿府の地にて1651(慶安4)年7月26日に自害した由井正雪の首塚である。菩提樹院境内に置かれている。
 正雪は駿河国由比の紺屋の子というのが定説になっている(生家とされる「正雪紺屋」が存在)。名は正真または正之とも。幼少の頃、寺に入れられて軍学を学んだという。そして、江戸神田の長屋に「張孔堂」という軍学塾を開き、弟子を募って講義を行った。正雪は楠木正成の名声を利用して門人を集め、当時、江戸にあふれていた浪人のほか諸大名の家臣や旗本も多く集まり、その門弟の数は4000人に達したとされている。御三家の紀州藩主・徳川頼宣や備前藩主・池田光政などとも親交を持つようになった。
 正雪は、幕府によるこれまでの相次ぐ大名の改易により浪人が激増していること、また幕府に意見書提出した松平定政の出家遁世事件など、幼い第4代将軍・徳川家綱を取り巻く幕閣たちに強い不満を抱き、浪人救済と天下御長久の政策奏上を目的に幕閣追放を計画する。乱後はいかなる処分も覚悟していたとされる。
 正雪が立てた計画では、浪人を集めて久能山を落として駿府城を乗っ取り、江戸では7月29日に塩硝蔵に火をつけ、町にも放火し、登城した御三家や老中の屋敷に矢・鉄砲を射かけるというものだった。さらに大坂や京都でも騒動を起こすことを準備していた。一味の浪人の数はおよそ1500人に達したという。
 正雪は7月22日のうちに江戸を発ち、25日に駿府に着いて茶町の梅屋太郎左衛門のもとに宿泊した。しかし、7月23日夜には、奥村八左衛門・奥村七郎左衛門幸忠らが訴え出たことで事件が明るみに出る。その日のうちに江戸での同志・丸橋忠弥が長屋で捕縛される。25日夜、梅屋を与力・同心らが包囲したが、紀伊大納言様御家中を称する正雪一行は町奉行による詮議のための出頭の求めに応じず、問答が続いて夜が明けた。与力・同心が梅屋に踏み込むと、正雪ら8名が自害しており、介錯役の僧・廓然が生け捕られた。大坂で騒ぎを起こす手はずだった吉田勘右衛門は有馬温泉で発見され自害。京都に向かった熊谷三郎兵衛も江戸へ戻り、自害した死体が発見された。
 8月10日、正雪らの首は安倍川の河原に晒し首となった。正雪の首は縁者の女人が密かに盗み去り、菩提樹院に葬ったという。また、同日には江戸品川でも丸橋忠弥や正雪の父はじめ親族30人余りが処刑され、駿府に留め置かれていた正雪の母も9月13日に処刑されている。
 この慶安の変をきっかけとして、4代将軍・徳川家綱以降の政治が武断政策から文治政策へ転換され、この年の12月には末期養子の禁が緩和されることになった。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 江戸時代:前期
関連年号 1651年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
由井正雪 ****


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