駿府城跡
すんぷじょうあと(Sunpu Castle Ruins)
【C-SZ161a】探訪日:2025/3.24
静岡県静岡市葵区駿府城公園1-1
【MAP】
〔駐車場所〕
14世紀に室町幕府の駿河守護に任じられた今川氏によって築かれた今川館に始まる。天正期天守台の内部に今川期の遺構が確認されているが、一方、今川館は駿府城跡よりも西側の地域にあったとする推測もあり、はっきりしていない(具体的な位置も不明)。1560(永禄3)年に今川義元が討たれ、1568(永禄11)年に武田信玄の駿河侵攻によって今川氏真の今川館は焼失した。
1582(天正10)年、その武田氏も織田・徳川勢力により滅亡されると、駿河の武田遺領は徳川家康が領有することになった。1585(天正13)年から徳川家康により、駿府城は近世城郭として築城し直され、この時に初めて天守が築造されたという(天正期天守)。そして翌年には、家康は自身が17年過ごした浜松城から駿府城に移った。
その後、1590(天正18)年、豊臣政権による後北条氏滅亡に伴う家康の関東移封が行われ、徳川領国と接する駿府城には豊臣系大名の中村一氏が入城。一氏は関ヶ原の戦いの直前に死去する前、徳川方の東軍につくことを決め、戦いの後に嫡子の中村一忠が伯耆に転封されたため、駿府は内藤信成(家康の異母弟)が治めた。
江戸時代初期、家康は徳川秀忠に将軍職を譲り、駿府藩を治めていた内藤信成に代わって駿府に隠居した(駿府藩は一時的に廃藩)。政治的影響力を持ち続けた家康は大御所と呼ばれた。このとき駿府城は天下普請によって大修築され、ほぼ現在の形である3重の堀を持つ輪郭式平城が完成した。藤堂高虎の屈指の縄張り説がある。1607(慶長12)年に、城内からの失火により、完成して間もない本丸御殿を焼失したが、その後直ちに再建工事が開始され、1610(慶長15)年には完成した。天守台は、石垣上端で約55m×48mという城郭史上最大級の規模であった。天守曲輪は、7階の天守が中央に建つ大型天守台の外周を隅櫓・多聞櫓などが囲む特異な構造となった。1610年再建時の大工棟梁(大棟梁)は中井大和守正清で、地元の大棟梁・華村長左衛門尉正重とその子孫10代が、幕末まで同城の修復を手掛けている。
1609(慶長14)年に家康の10男・徳川頼宣が50万石で入封し駿府藩が復活したが、1633(寛永10)年以降は明治維新まで幕府の直轄地となり駿府城代が置かれた。
家康の隠居城として大改修が行われた駿府城は、輪郭式平城として本丸を中心として二の丸,三の丸が同心円状に巡る縄張で、何れも石垣と水堀が巡りている。本丸は北西に天守台、南に正門として玄関前門、東に台所門、北に天守下門があり、何れも枡形を形成している。この基本構成は同時期築城の名古屋城本丸と全く同一である。二の丸は仕切り石垣で複数に区画されており、これは徳川大坂城や寛永度二条城二の丸と同様の構造である。四方に枡形門〔南:二ノ丸門(正門),東:東門,北:北門,西:清水門(跳ね橋)〕を構え、また本丸と二の丸の水堀を繋ぐ水路があり、二の丸の出口は水門と櫓で厳重に守られていた。二の丸には本多正純や竹腰正信の屋敷、本丸の台所門出口近くには台所や米蔵があり、また南西は西の丸と呼ばれ秀忠が駿府に赴いた際に使用した御殿があった。三の丸は、南に二箇所(東側大手門,西側:四足門),東に横内門,北に草深門があり、家康の隠居城時代は能楽専用の屋敷があった以外は屋敷地として使用され、幕府直轄期は城代・定番・在番等の屋敷地となった。二の丸と三の丸を繋ぐ水路もあり、横内門を通って三の丸の堀と繋がっていた。
現在は、三ノ丸には官庁や学校などの公共施設が立地し市街地化しているが、二ノ丸,本丸は「駿府城公園」として市民に開放されている。三重の堀のうち外堀の三分の一は埋め立てられて現存しない。中堀は現存するが一部の石垣は過去の地震によって崩落したままになっており土塁のようになっている。また、内堀は明治時代に陸軍歩兵第34連隊が駐屯中に埋められたが、部分的に発掘され保存されている。
1989(平成元)年に二ノ丸南東の巽櫓、1996(平成8)年には東御門(櫓門)と続多聞櫓、また、2014(平成26)年3月末には二ノ丸南西角に坤櫓も復元された。2016(平成28)年8月より天守台の発掘調査が始まっている(【C-SZ161b】参照)。