石田三成陣地跡〔関ヶ原古戦場〕

いしだみつなり じんちあと〔せきがはらこせんじょう〕(Encampment Ruins of Ishida Mitsunari [Historic Battlefield of Sekigahara])

【B-GF001c01】探訪日:1990/6.3・2026/4.25

【BGF001c01】石田三成陣地跡 岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原4008

【MAP】

〔駐車場所〕

   1600年(慶長5)年10月21日(9月15日)、関ヶ原の戦いにおいて西軍総大将の石田三成がに陣を置いた場所である。笹尾山と呼ばれる方軍陣地全体を一望できる丘陵地である。
 西軍諸将と大垣城に留まっていた石田三成は、東軍が大垣城を素通りして大坂へ向かうという流言(家康の短期野戦に持ち込むための誘導)を信じ、14日夜半に大垣城を出て、15日午前1時頃には関ヶ原の笹尾山に布陣し(島左近隊と合わせ6,000)、諸将を各所に配して東軍を迎え撃つ構えをとった。
 15日午前6時頃、思い通りに野戦に持ち込んだ家康も最初は東の桃配山に本陣を置く。午前8時頃、戦いの火蓋が切られると、笹尾山前方に陣を置く島左近を中心とする石田隊は獅子奮迅の働きで東軍を幾度も押し返した。しかし、島左近が黒田長政隊の射撃で負傷し戦線脱落すると、石田隊も徐々に押し込まれる。三成にとっての誤算は、笹尾山の前方に陣取る島津義弘隊,松尾山の小早川秀秋隊、そして東軍の後方(東側)の南宮山に陣取る毛利秀元隊ら西軍の諸将が動こうとしなかったことである。午前11時頃には、家康は石田三成陣地のある笹尾山正面(直線距離約950m)まで陣を進めて東軍を鼓舞している。
 正午過ぎ、松尾山の小早川秀秋がついに東軍へと寝返ると、松尾山麓に配されていた脇坂安治隊なども寝返り、奮戦していた大谷吉継隊は壊滅状態となり、午後2時過ぎには西軍は総崩れとなった。三成は再起をかけ伊吹山方面へと戦場離脱(敗走)し、最後の島津義弘隊も家康本陣前を駆け抜けて退却し、これにより東軍の勝利で合戦は終結した。
 なお、三成は戦いの数日後に自身の領地である近江国の古橋村で捕縛され、1600(慶長5)年11月6日(10月1日)処刑された。
 笹尾山の陣地跡には馬防柵が復元設置されている。

【史跡規模】

【指 定】国指定史跡(1931年3月30日指定
【国 宝】
【国重文】

関連時代 安土桃山時代
関連年号 1600年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
石田三成 H525


【BGF001c01】石田三成陣地跡



【BGF001c01】石田三成陣地跡

<関ヶ原合戦 布陣図(開戦前)>

(現地パンフレットを一部編集)

<関ヶ原古戦場 関連史跡>

西軍(戦力総数:80,000以上) 東軍(戦力総数:74,000~104,000)

石田三成陣地・島左近陣跡・島津義弘陣跡・小西行長陣跡
宇喜多秀家陣跡・平塚為広碑・大谷吉継陣跡・大谷吉勝/木下頼継陣跡

桃配山(徳川家康最初陣地跡)・床几場(徳川家康最後陣地跡)
本多忠勝陣跡・京極高知/藤堂高虎陣跡・福島正則陣跡
松平忠吉/井伊直政陣跡・田中吉政陣跡・細川忠興陣跡
岡山(丸山)烽火場/黒田長政・竹中重門陣跡
山内一豊陣跡・浅野幸長陣跡・池田輝政陣跡

傍観軍

吉川広家陣跡・安国寺恵瓊陣跡・毛利秀元陣跡
長宗我部盛親陣跡・長束正家陣跡

反応軍 脇坂安治陣跡・小早川秀秋陣跡
開戦地・決戦地
西首塚・東首塚

【BGF001c01】石田三成陣地跡 ※本サイトの写真は転用可です(画像をピックすると拡大、コメント表示されます)

笹尾山への登り口(島左近陣跡) 馬防柵(復元)