毛利秀元陣跡〔関ヶ原古戦場〕
もうり ひでもと じんあと〔せきがはらこせんじょう〕(Encampment Ruins of Mori Hidemoto [Historic Battlefield of Sekigahara])
【B-GF001d03】探訪日:2026/4.25
岐阜県不破郡垂井町宮代
【MAP】
〔駐車場所〕南宮大社にあるハイキング者用駐車場を利用する。
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1600年(慶長5)年10月21日(9月15日)、関ヶ原の戦いにおける毛利秀元の陣跡である。南宮山に15,000の兵を率いて布陣した。徳川家康本隊の後方である。
1600(慶長5)年7月19日、毛利輝元が大坂城西の丸に入ると、同日、輝元の養子・毛利秀元も毛利氏の先手勢として大坂城西の丸を占拠し、城内から家康の留守居役を追い出した。8月5日には、吉川広家,安国寺恵瓊らとともに出陣し、伊勢国安濃津城を攻撃したのち、9月10日に南宮山に着陣した。だが、広家は福原広俊ら少数の重臣だけと相談して東軍と内通し、「毛利は表向きは西軍であるが、戦場では戦わない。その代わり、東軍が勝利した暁には所領を安堵してほしい」と9月14日に密約を結んでいた(7月15日には既に協議を進めていたとも)。
9月15日、東軍と西軍が関ヶ原で激突した。南宮山に布陣する秀元自身には戦意があったとされるが、先陣の広家が道を空けないため動けずにいた。長束正家陣営の急使が南宮山の毛利の本営に駆けつけ、秀元に戦闘参加を要請してきたが、動くことができなかったため、秀元は長束の使者に対して、「兵卒に兵糧を食させている最中なり」といって時間をかせいだ。世人は、これを「宰相殿の空弁当」と称したという。
広家の抑えで毛利軍の大将たる秀元が傍観せざるを得ない状況に追いやられたため、恵瓊,長宗我部盛親,長束正家など他の南宮山に布陣していた軍勢も秀元が東軍に内通しているのではないかという疑心暗鬼にとりつかれ、彼らも傍観せざるを得なくなった。そのうち戦局が西軍の敗色濃厚となると、秀元は東軍と一戦も交えずに大坂に向けて撤退した。秀元ら毛利勢は南宮山から伊吹山に入り、17日に伊吹山を発ち、東軍が攻撃中の佐和山城のふもとを通過して、18日に瀬田を通過し、大坂に帰還した。この間も毛利勢は、東軍と一戦も交えなかった。大坂に着いた毛利勢は輝元のいた大坂城西の丸には入らず、大坂の町中に駐屯した。輝元も9月25日には大坂城を退去した。
なお、戦後、毛利一門は西軍との深いつながりを徳川方に指摘されて本領安堵の約束を反故にされ、輝元の所領は大減封となり、秀元も分知された領土17万石余を没収され事実上の改易処分となった。秀元は輝元から長門国豊浦郡と厚狭郡に6万石を内分分知され、長府藩主となった。また、吉川広家は東の周防国岩国領に封じられた。
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【史跡規模】
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【指 定】 |
| 関連時代 | 安土桃山時代 |
|---|---|
| 関連年号 | 1600年 |
| 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
|---|---|---|---|---|---|
| 毛利秀元 | OE16 | 吉川広家 | F016 | 福原広俊 | OE10 |
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毛利秀元陣地の縄張り図(現地説明板に加筆)
<関ヶ原合戦 布陣図(開戦前)>

(現地パンフレットを一部編集)
<関ヶ原古戦場 関連史跡>
| 西軍(戦力総数:80,000以上) | 東軍(戦力総数:74,000~104,000) | ||
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石田三成陣地・島左近陣跡・島津義弘陣跡・小西行長陣跡 |
桃配山(徳川家康最初陣跡)・床几場(徳川家康最後陣跡) |
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| 傍観軍 |
吉川広家陣跡・安国寺恵瓊陣跡・毛利秀元陣跡 |
反応軍 | 脇坂安治陣跡・小早川秀秋陣跡 |
| 開戦地・決戦地 | |||
| 西首塚・東首塚 | |||