春王・安王墓所

はるおう・やすおう ぼしょ(Grave of Haru-o and Yasu-o)

【K-GF029】探訪日:2026/4.25

【K-GF029】春王・安王墓所 岐阜県不破郡垂井町1482-1

【MAP】

〔駐車場所〕

【K-GF029】春王・安王墓所

   1441(嘉吉元)年、結城合戦での結城城落城の際に捕えられ、京への護送中に足利義教の命により殺された鎌倉公方・足利持氏の遺児の春王と安王の墓所である。
 1435(永享7)年からの鎌倉公方・足利持氏と補佐役の関東管領・上杉憲実の対立から1438(永享10年)に永享の乱が発生、持氏は敗れて自殺し、鎌倉府は滅亡した。乱後に6代将軍・足利義教が実子を鎌倉公方として下向させようとすると、1440(永享12)年3月に持氏の残党や下総の結城氏朝・持朝父子などが永享の乱で自殺した持氏の遺児を擁立し、室町幕府に対して反乱を起こす(結城合戦)。
 幕府方は上杉清方を総大将とし今川範忠,小笠原政康などの諸将や関東の国人などを討伐のために派遣して、同年7月29日、氏朝らの立てこもった結城城を包囲した。1441(嘉吉元)年4月16日、結城氏朝・持朝は敗北し討死し、城は落城。持氏の遺児のうち、春王・安王は捕えられ、京への護送中、義教の命を受けた長尾実景によって美濃垂井の金蓮寺において斬首され、京都で首実験に供された後、同寺に埋葬された。その時、春王13才,安王11才であった。
 翌年には、京都において結城合戦の祝勝会の名目で招かれた将軍・足利義教が家臣の赤松満祐に暗殺される(嘉吉の乱)。義教は次男である義制を次の鎌倉公方に任命するべく工作していたが、自身の死によって挫折することになった。1446(文安3)年には、関東諸将の要請で春王らの兄弟・成氏(万寿王)が鎌倉に帰還し鎌倉府が復活した。成氏は後に上杉氏と対立、享徳の乱を起こす。
 国道21号線脇にある墓所には、石柵に囲まれて3基の宝篋印塔が建つ。小さくほぼ同じ高さの2基の宝篋印塔が春王・安王の墓とされ、大きい宝篋印塔は乳母の供養塔だという。なお、この地は関ヶ原の戦いの際の池田輝政陣跡でもある。

【史跡規模】

【指 定】岐阜県指定史跡(1968年8月6日指定)
【国 宝】
【国重文】

関連時代 室町時代
関連年号 1441年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
足利春王丸 G334 足利安王丸 G334


【K-GF029】春王・安王墓所



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春王・安王の墓と乳母の供養塔