平忠常墓所(しゃもじ塚)
たいらのただつね ぼしょ(しゃもじづか)(Grave of Taira Tadatsune [Shamoji-zuka])
【K-GF028】探訪日:2026/4.25
岐阜県不破郡関ケ原町野上382-1
【MAP】
〔駐車場所〕
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1031(長元4)年6月、平忠常の乱の後、降伏し、京への護送途中に美濃国野上で病死した平忠常の墓所である。
平忠常は祖父・平良文(平将門の叔父),父・忠頼と三代に亘り下総国相馬郡を本拠に関東で勢力を伸ばした。上総国,下総国,常陸国と広大な所領を有し、傍若無人に振る舞い、国司の命に服さず納税の義務も果たさなかった。
1028(長元元)年6月、忠常は安房守・平維忠を焼き殺す事件を起こした。原因は不明だが、受領と在地領主である忠常との対立であるとみられる。続いて忠常は上総国の国衙を占領した。上総介・縣犬養為政の妻子が京へ逃れ、これを見た上総国の国人たちは忠常に加担して反乱は房総参加3ヶ国(上総国・下総国・安房国)に広まった。平安時代の関東地方では平将門の乱以来の大規模な反乱であった。
朝廷は検非違使の平直方と中原成通を追討使として派遣するが3年にわたって鎮圧できなかった。1030(長元3)年9月、業を煮やした朝廷は常陸介在任中に忠常を臣従させていた甲斐守・源頼信を追討使に任じて忠常討伐を命じた。頼信は直ぐには出立せず、準備を整えた上で忠常の子の一法師をともなって甲斐国へ下向した。長期に及ぶ戦いで忠常の軍は疲弊しており、下野国の藤原兼光を通して降伏の意向を伝えてきていた。頼信が上総国へ出立しようとした1031(長元4)年春、忠常は出家して子と従者をしたがえて頼信に降伏した。頼信は忠常を連れて帰還の途につくが、同年6月、美濃国野上で忠常は病死。頼信は忠常の首をはねて帰京した。忠常の首はいったん梟首とされたが、降人の首をさらすべきではないとして従者へ返され、また忠常の子の常将と常近も罪を許された。
「しゃもじ塚」の由縁は、忠常が京への護送の途中に、病気にかかり何も口にすることができない忠常に、野上の住民が食べ物をしゃもじに載せ差し出したところ、一気に食しそのまま息を引き取った。住民はここに塚を築いて弔ったという。