円融天皇後村上陵
えんゆうてんのう のちのむらかみのみささぎ(Nochinomurakami Mausoleum of Emperor En’yu)
【K-KT072】探訪日:2026/6.14
京都府京都市右京区宇多野福王子町79-12
【MAP】
〔駐車場所〕
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991年3月1日(正暦2年2月12日)、御願寺である円融寺で宝算33で崩御した第64代・円融天皇〔在位:969~984年〕の陵である。宮内庁上の形式は円丘。遺体は円融寺の北原で火葬に付し、父・村上天皇陵の南約400mに遺骨が納められた。今日でも龍安寺裏の朱山に円融院火葬塚が残されている。
円融天皇は村上天皇の第5皇子で、母は右大臣・藤原師輔娘の皇后(中宮)安子。諱は守平といい、冷泉天皇,為平親王の2人の同母兄のほか、4人の同母姉妹がおり、他の兄弟と共に中宮権大夫を務めていた藤原兼通に庇護されていた。
兄の冷泉天皇が即位すると、立太子をめぐり藤原氏と左大臣・源高明が対立したが、康保4年(967年)9月1日、藤原氏が主張する9歳の守平親王が皇嗣となった。対立はさらに安和の変の勃発に発展し源高明が失脚、高明の娘を妃にしていた為平親王は不利な立場となり、冷泉天皇は守平親王に譲位した(円融天皇)。
その後、藤原兼通と兼家の間で関白職を巡って熾烈な争いが起きるが、天皇は亡母・安子の遺訓に従って兼通を関白に任じた。しかし、兼家も天元元年(978年)に次女・詮子を入内させ、詮子は天皇の唯一の皇子女である懐仁親王(後の一条天皇)を儲けた。天皇は藤原頼忠の娘・遵子を冊立したり、内裏焼失の際にも兼家への依存を拒み、関白頼忠邸や故兼通邸の堀河殿を里内裏として使用するなど、円融天皇と兼家の意地の張り合いは収まらなかった。
やがて天皇は兼家に譲歩し、永観2年(984年)、息子の懐仁親王の立太子と引き換えに、冷泉天皇の皇子・師貞親王に譲位し(花山天皇)、太上天皇となる。 その後は比較的自由な上皇の身で、詩歌管絃の遊楽を楽しみ、石清水八幡宮,石山寺や南都の諸寺に参詣している。寛和元年(985年)8月には大僧正寛朝から受戒して出家し、以後勅願寺である円融寺に住んだ。翌年には、寛和の変により花山天皇は懐仁親王に譲位し、数え7歳の一条天皇が立った。
正暦2年(991年)、円融太上天皇は円融寺にて33歳の生涯を閉じた。
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【史跡規模】
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【指 定】 【国 宝】 【国重文】 |
| 関連時代 | 平安時代:中期 |
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| 関連年号 | 991年 |
| 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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| 円融天皇 | K324 |
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