和気清麻呂墓所〔神護寺〕

わけのきよまろ ぼしょ〔じんごじ〕(Grave of Wake no Kiyomaro [in Jingo-ji Temple])

【K-KT070】探訪日:2026/6.14

【K-KT070】和気清麻呂墓所 京都府京都市右京区梅ケ畑高雄町

【MAP】

〔駐車場所〕

【K-KT070】和気清麻呂墓所

   799(延暦18)年2月21日、皇統の断絶の危機を救い、さらに平安京建都にも尽力し享年67で薨去した和気清麻呂の墓所である。1898(明治31)年に建立され、刻まれている文字は公爵・鷹司煕通の筆になる。
 769(神護景雲3)年7月頃に宇佐八幡宮の神官を兼ねていた大宰府の主神・中臣習宜阿曾麻呂が宇佐八幡神の神託として、称徳天皇が寵愛する道鏡を皇位に就かせれば天下太平になる、と奏上する。道鏡はこれを聞いて喜ぶとともに自信を持ち、自らが皇位に就くことを望んだ(ただ、これは道鏡が習宜阿曾麻呂を唆して託宣させたともされる)。
 称徳天皇は神託を確認するため側近の尼僧・和気広虫(法均尼)を召そうとしたが、虚弱な法均では長旅は堪えられないため、代わりに弟の清麻呂を召して宇佐八幡宮へ赴き神託を確認するように勅した。清麻呂は出発にあたって、道鏡から吉報をもたらせば官位を上げる旨をもちかけられたという。
 清麻呂は宇佐八幡宮に参宮し、宇佐八幡宮大宮司に復した大神田麻呂による託宣「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人(道鏡)は宜しく早く掃い除くべし」を朝廷に持ち帰り、称徳天皇へ報告した。清麻呂の報告に道鏡は怒り、清麻呂を因幡員外介に左遷するが、さらに、別部穢麻呂と改名させ、大隅国に配流した(宇佐八幡宮神託事件)。道鏡は配流途中の清麻呂を追って暗殺を試みたが、急に雷雨が発生して辺りが暗くなり、殺害実行の前に急に勅使が派遣されて企みは失敗したともいう。
 770(神護景雲4)年8月、称徳天皇崩御で後ろ楯を無くした道鏡が失脚すると、9月には清麻呂は大隅国から呼び戻されて入京を許され、翌年に官界に復帰し、清麻呂には美作備前両国の国造とする旨の詔が出された。桓武朝になると、実務官僚として重用されて783(延暦2)年に摂津大夫に任ぜられる。さらに、10年かけても完成を見なかった長岡京に見切りを付けて、山背国葛野郡宇太村を選んで平安京への遷都を進言するとともに、793(延暦12)年には造宮大夫に任ぜられ、自身も建都事業に尽力した。796(延暦15)年には、ついに公卿の地位に昇る。
 なお、1874(明治7)年、神護寺境内にあった清麻呂を祀った廟は護王神社と改称され、1886(明治19)年には明治天皇の勅命により、神護寺境内から京都御所蛤御門前に遷座した。

【史跡規模】

【指 定】
【国 宝】
【国重文】

関連時代 平安時代:前期
関連年号 799年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図

和気清麻呂

WK01


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文覚上人墓所へ登る途中にここの右の道を進むと和気清麻呂墓所に出る(別ルートもある) 神護寺境内にある和気公霊廟 神護寺境内にある和気公霊廟