神護寺
じんごじ(Jingo-ji Temple)
【T-KT010】探訪日:1991/10.16・2029/6.14
京都府京都市右京区梅ケ畑高雄町5 <📲:075-861-1769>
【MAP】
〔駐車場所〕無料の京都市高雄観光駐車場が利用できる(11月のみ有料)。
![]()
太政官符によれば、824(天長元)年に和気氏の私寺であった神願寺と高雄山寺が事実上合併し、寺号を「神護国祚真言寺」としてできた寺である。通称、神護寺という。開基は和気清麻呂(799年没)である。合併の際、神願寺の本尊である薬師如来立像(国宝)もこの地に移されて当寺の本尊となっている。
2つの前身寺院のうち、神願寺は、和気清麻呂により781(天応元)年に建てられたとされるが、その所在地については河内国二上山説,山背国男山説など諸説あり、はっきりしていない。
もう1つの前身寺院である高雄山寺(高雄寺とも)は、現在の神護寺の地に古くから存在した寺院である。和気清麻呂の墓所が今の神護寺境内にあるところから、ここも和気氏ゆかりの寺院であることは確かだが、創立の時期や事情については明確でない。清麻呂が神願寺を建立したのとほぼ同じ時期に建立されたとされる。伝承では、洛北の鷹峯に鎮座していた愛宕権現を愛宕山に移座した際に、他のいくつかの山岳寺院とともに建立されたという(現在も残っているのは神護寺と月輪寺)。高雄山寺の歴史上の初見は802(延暦21)年で、和気氏当主の和気広世(清麻呂の長男)は伯母に当たる和気広虫(法均尼)の三周忌を営むため、最澄を高雄山寺に招請し、法華会を行った。また、812(弘仁3)年には空海が高雄山寺に住し、ここで灌頂を行った。
空海の後、弟子の実慧や真済が別当(住職)となって護持されたが、994(正暦5)年と1149(久安5)年に火災で焼失するなどしたため、平安時代末期には衰退していた。
1168(仁安3)年、武士出身の僧・文覚が当寺に参詣する。文覚は、寺が荒れ果てていることを嘆き再興の勧進を始めると、薬師堂、空海の住坊跡である納凉殿、不動堂などを再建した。しかし、復興の強引さに後白河法皇と軋轢を生じ伊豆国に流されたり、また、あまりに政治に関与しすぎ、佐渡国・対馬国に流され、配流先で生涯を終えることになる。後鳥羽上皇は神護寺を延杲に与え、神護寺の所領を没収して女房や近臣達に全て分け与えてしまったとされている。
1221(承久3)年、承久の乱によって後鳥羽上皇が配流されると、院政を開始した後高倉院(守貞親王)は、乱の直後に弟子の上覚(上覚房行慈)に没収された神護寺領が返還し、神護寺の再興が命じられる。1225(嘉禄元)年に明恵を導師として伝法会が修された。翌1226(嘉禄2)年に再興事業は完遂された。
神護寺は鎌倉時代末期に後宇多天皇が空海ゆかりの寺院であることを理由に保護を与え、その子である後醍醐天皇からも重んじられた。しかし、天文年間(1532~55年)には兵火に掛かって全焼している。
1615(元和元)年に讃岐国の屋島寺から龍厳が入寺すると、龍厳に帰依する京都所司代・板倉勝重が奉行となって1623(元和9)年に金堂(現・毘沙門堂)をはじめとして再興が行われた。江戸時代中期には堂宇7、支院9、僧坊15を数えるまでに再興されている。
しかし、明治時代になると廃仏毀釈によって9つの支院と15の坊は破壊され、別院2箇寺と末寺の全てが他寺に移され、衰微した。1935(昭和10)年、実業家の山口玄洞により新たな金堂や、多宝塔,龍王堂,和気公霊廟,茶室が寄進されている。このほか、境内には毘沙門堂,五大堂,鐘楼,楼門(以上は京都府指定有形文化財),大師堂,明王堂,地蔵堂などが建つ。さらに後方の高雄山には、和気清麻呂墓所,文覚上人墓所,性仁法親王墓所がある。
|
【史跡規模】
|
【指 定】 |
| 関連時代 | 平安時代:前期 | 平安時代:後期 | 鎌倉時代 | 江戸時代:前期 | 昭和時代:前期 |
|---|---|---|---|---|---|
| 関連年号 | 824年 | 1168年 | 1226年 | 1615年・1623年 | 1935年 |
| 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
|---|---|---|---|---|---|
| 和気清麻呂 | WK01 | 最澄 | **** | 空海 | SE01 |
| 文覚 | G009 | 龍厳 | **** | 板倉勝重 | G347 |
| 山口玄洞 | **** |
![]()
![]()

神護寺境内図(パンプレットに加筆)

神護寺の国宝(一部)