真清田神社
ますみだじんじゃ(Masumida Shrine)
【S-AC079】探訪日:2026/10.1
愛知県一宮市真清田1丁目2-1 <📲:0586-73-5196>
【MAP】
〔駐車場所〕
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創建時期は定かではないが、古代に尾張地方を治めた尾張氏の奉斎に始まるとされ、尾張氏祖神の天火明命を祭神とする。中世には尾張国の一宮に位置づけられ、地名「一宮」もこれに由来する。古くから一宮地域の発展に関わってきた古社である。
創建には、神武天皇の時代、あるいは第10代・崇神天皇の時代とする2説があるが、文献はいずれも中世以降の成立であり、伝承の域を出ない。『真清田神社史』では、尾張氏が大和葛城地方から尾張に進出し、崇神天皇頃にあたる尾張氏一族の倭得玉彦命の時期に神社が創祀されたと想定している。
国史での初見は847(承和14)年で、「真清田天神」の神階が無位から従五位下に昇叙されたとある。その後、851(仁寿元)年に「真清田神」は官社に列し、その後、神階は昇叙されていく。927(延長5)年成立の『延喜式』神名帳では尾張国中島郡に「真墨田神社 名神大」と記載され、名神大社に列している。また『尾張国内神名帳』(尾張国内神名牒)では、「正一位 真清田明神」と記載されている。真清田明神が一宮、一宮に次ぐ尾張国二宮は大縣神社(犬山市宮山)、三宮は熱田神宮(名古屋市熱田区)とされるが、神階・格式の点では熱田神宮が尾張国で最高位にあり矛盾する。この点については古来諸説が挙げられており、今日では尾張国府との距離関係の反映とする説や、東海道における京からの位置関係の反映とする説が一般視されている。
祭神ついては、現在は天火明命1柱であるが、かつては国常立尊祭神説や大己貴命祭神説など複数説が存在した。中世末期から江戸時代までは国常立尊祭神説が主流で、明治の時点での祭神は国常立尊のほか天照大御神,月夜見神,大己貴神,大竜王神の5柱となっていた。しかし、『特選神名牒』において「天照大御神」が「天火明命(天照国照彦天火明尊)」の誤記と見なされ、かつ他の4柱が省略されて天火明命1柱とされたという。
真清田神社は古来多くの社領(真清田荘)を有し、鎌倉時代には旧中島郡のほか葉栗郡・愛智郡・海東郡・海西郡一帯と広範囲に亘って分布していた。天文年間(1532~55年)からは佐分氏が神職を務めるようになった(幕末まで世襲)。その後、1584(天正12)年の大地震で社殿が崩壊し、豊臣秀吉に社領も没収されて社勢は衰えたという。
江戸時代に入ると、徳川氏から庇護を受けて復興し、尾張藩主・松平忠吉から社領200石の寄進、さらに1627(寛永4)年には藩主・徳川義直から105石余の寄進を受け、336石6斗余の社領を有するようになったという。
明治維新後、1885(明治18)年に近代社格制度において国幣小社に列した。社名も現在の「真清田神社」に統一された。社殿は第二次世界大戦中の一宮空襲で焼失したため、現在見られるものは戦後の再建である。そのうち、本殿,祭文殿などは神社建築としての造形を評価され、国の登録有形文化財に登録されている。また国の重要文化財の木造舞楽面12面,朱漆器25点をはじめとして、多くの文化財も伝世する。そのほか、創建日とされる4月3日に行われる例祭は「桃花祭」として知られる。
約30,090㎡の境内には、楼門・北門・本殿・祭文殿・渡殿・拝殿・廻廊透塀・神饌所・社務所などが再建されている。本殿東方に鎮座する服織神社は、天火明命の母神にあたる萬幡豊秋津師比売命(栲幡千千姫命)を祭神とし一宮市が織物産業で栄えたことから、1965(昭和40)年に織物の神社として創建されたものである。織物感謝祭は、「一宮七夕まつり」として知られている。
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【史跡規模】
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【指 定】 【国 宝】 【国重文】・木造舞楽面 12面 |
| 関連時代 | 伝承の時代(古墳時代:前期) |
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| 関連年号 |
| 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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| 倭得玉彦命 | A103 |
佐分氏 | **** |
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