尾張国衙跡
おわりこくがあと(Owari Kokuga [Provincial Governor's Office] Ruins)
【R-AC086】探訪日:2026/9.22
愛知県稲沢市松下2丁目13-3
【MAP】
〔駐車場所〕尾張国衙址碑が建つ松下公民館に駐車可能。
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愛知県稲沢市の松下地区(松下公民館横)に「尾張国衙址」の碑が建つ。国衙とは、奈良時代初期に律令制において派遣された国司が地方政務を執った役所の区画であり、尾張国の国衙(国府)は尾張大国霊神社(通称:国府宮)を中心に約800m四方の範囲に所在していたとされるが、その区画や国庁の位置などは確定できていない。一説には、国衙は下津地域にあったとする説もある。
尾張大国霊神社北側では礎石建物が検出され、官衙の所在を思わせる特殊な遺物が数多く出土している。また、神社の東側にある塔の越遺跡でも奈良時代の国司館とみられる遺構・遺物を検出しているが、前述のように国庁の確定には至っておらず、今後の調査結果が期待される。
703(大宝3)年7月に初代国司に多治比真人水守が任命されて以降、多くの国司が任命されたが、特に、988(永延2)年11月に任命された尾張守・藤原元命は悪政を極め、郡司・百姓らに訴えられて(「尾張国郡司百姓等解文」が有名)、翌989(永祚元)年4月には解任されている。一方、1001(長保3)年,1008(寛弘6)年に国司として着任した大江匡衡は、善政を尽くし、大江川開削事業,尾張学校院の再興などを行い、農民から徳として認められ、開削した川は姓にちなんで「大江川」と名づけられている(992年にも尾張国国司に任命されているが、このときは着任せず)。大江匡衡の妻は、歌人として知られる赤染衛門であり、匡衡とともに尾張国へ下向している。尾張学校院跡の碑(松下1丁目1−1)と、匡衡と衛門の歌のやり取りの碑が赤染衛門歌碑公園(松下1丁目17−27)に建てられている。
なお、尾張国衙跡の松下地区には、室町時代に松下城が所在していた。