織田信孝墓所〔野間大坊〕

おだのぶたか ぼしょ〔のまだいぼう〕(Grave of Nobutaka Oda [in Noma-Daibo Temple])

【K-AC011】探訪日:1990/7/30・2007/8/25・2014/3/9

【K-AC011】織田信孝墓所 愛知県知多郡美浜町大字野間東畠50

【MAP】

〔駐車場所〕

【K-AC011】織田信孝墓所

   1558(永禄元)年4月、織田信長の三男として家臣の岡本良勝邸で生まれた。母は側室で北伊勢の豪族坂氏の女であるという以外の出自は一切不明である。
 1568(永禄11)年、神戸城の神戸友盛の養子として迎えられ、神戸城の拡張にあたり五重の天守を設けた。1582(天正10)年には四国攻めの総大将として堺にて渡航の準備をしていたが、本能寺の変により中止となり、羽柴秀吉に合流して明智光秀を討つ。その後、岐阜城へと移り、1583(天正11)年4月の賎ヶ岳合戦に際しては柴田勝家と結んで岐阜城で挙兵したが、秀吉の命により織田信雄の軍勢に攻められ降伏開城した。信孝は長良川を下って尾張国知多郡に奔り、野間の内海大御堂寺(野間大坊)に退いたが、信雄の命令により安養院にて自害させられた。これには秀吉の内意があったとも言われている。信孝は切腹の際、腹をかき切って腸をつかみ出すと、床の間にかかっていた梅の掛け軸に臓物を投げつけたといわれる。享年26。安養院には短刀とその血の跡が残る掛け軸が伝来している。介錯は家臣の太田新左衛門尉が務め、後を追って自害し殉死した。

【史跡規模】

【指 定】
【国 宝】
【国重文】

関連時代 戦国時代
関連年号 1583年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
織田信孝 OD03 織田信雄 OD05 羽柴秀吉 ZZ01
太田新左衛門尉 ****

 

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▲1990年撮影

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