貝那木山城跡

かいなぎやまじょうあと(Kainagiyama Castle Ruins)

【C-NR057】探訪日:2025/5.8・6.7

【C-NR057】貝那木山城跡 奈良県奈良市都祁白石町

【MAP】

〔駐車場所〕北にある興善寺の駐車場を利用させていただく。

【C-NR057】貝那木山城跡

    天文年間(1532~54年)、山内衆徒随一の勢力を誇った多田延実により築かれた。多田氏は1214(建保2)年に多田経実が本貫の摂津より一族を引きつれて大和多田庄に移住し、次第に勢力を拡大して福住氏,吐山氏らとともに東山内衆の有力者となった。
 南北朝時代、多田氏は南朝方に属し、伊勢国司の北畠氏を後ろ盾として興福寺領であったこの地に進出することで勢力を拡大した。北畠氏が室町幕府に屈した後は越智氏に属し、幕府方となった筒井氏,吐山氏らと激しく争うことになる。多田氏は室町時代に多田城を築いていたが、1491(延徳3)年5月15日には、吐山藤満は興福寺六万衆に攻められて屈伏し吐山城が焼き払われると、都祁郷一帯を手に入れて、出城として貝那木山城を築いた。
 松永久秀が大和国に進出してくると、多田氏は筒井順慶に従う。1576(天正4)年には織田信長の北畠氏討伐に従った多田延実が伊賀で戦死した。1580(天正8)年、信長の破城令により城は廃却。さらに、1590(天正18)年、多田常胤は豊臣秀吉の小田原征伐に加わり、山中城の戦いで戦死し、多田氏の嫡統は絶えることになる。
 城は標高597m,比高120mの山頂に本丸を置き、北に二の丸,西と南にそれぞれ出丸をもつ東西約200m,南北約260m規模の山城である。所々に石積みも残されている。また、西側には畝状竪堀群がみられる。

【史跡規模】

【指 定】 

【国 宝】  

【国重文】

関連時代 戦国時代
関連年号 1532~54年・1576年・1580年・1590年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
多田延実 G109 多田常胤 G109

 

【C-NR057】貝那木山城跡
 2回訪れた。1回目は車で姉妹堂まで行ったが、途中には直径30cmほどの倒木が道を塞いでおり、Uターンもできずに、車から降りてなんとか倒木をずらし通り抜けた。また、道はかなりダートで落ちていた木の枝が車のアンダーの部品に引っ掛かり、路面とすり合って、走るとガガッと異音を発する始末。とても一般道を走れないと、手で引っ張っても取れず折れもせず、仕方なく仰向けになって車の下にもぐり込みなんとか外すことができた。2回目は、車ではなく徒歩で登ることにした(ルートは異なる)。登り口(1枚目の写真)から12分で姉妹堂まで到着。いろいろあった1回目の車よりも早かったかもしれない。登り始めは17時過ぎではあったが、登城ルートには所々に街灯が点灯しており、これも初めての経験であった。

 

【C-NR057】貝那木山城跡

 

貝那木山城縄張り図(『奈良の城郭』より転載加筆)

【C-NR057】貝那木山城跡 ※本サイトの写真は転用可です(画像をピックすると拡大、コメント表示されます)

登り口(右には車で登れる道がある) 登山道に街灯が設置されている 西出丸近くの姉妹堂(ここまで車で行くことができる) 西出丸 西出丸 西出丸 西出丸南側の石積み 西出丸南側の石積み 西出丸南側の石積み 井戸跡 井戸跡 この下が畝状竪堀群(雑草で見えないが) 姉妹堂から二の丸,本丸へ 二の丸 二の丸 多田氏供養塔 本丸 本丸 本丸 本丸 帯曲輪 帯曲輪 主郭を見上げる 帯曲輪 帯曲輪 登り口手前からの遠景