多田城跡

ただじょうあと(Tada Castle Ruins)

【C-NR046】探訪日:2025/5.14

【C-NR046】多田城跡 奈良県宇陀市

【MAP】

〔駐車場所〕満寿寺の前、登城口に駐車場がある。

【C-NR046】多田城跡

   佐比山城ともいう。築城年は定かではないが、室町時代に多田氏によって築かれたとされる。この地の多田氏は、1214(建保2)年に本貫の摂津より多田経実が一族を引きつれて移住し土着したことに始まる。多田経実は清和源氏の嫡流で摂津国多田荘の源満仲の9代目子孫という。
 以降、経実の子孫は大和国東山内地方の有力国人として勢力を伸ばし、天文年間(1532~55年)には多田延実が西方に出城として貝那木山城を築いて、都祁一帯も大部分を勢力下においた。室町期後期になると、南方に吐山城を構えていた吐山氏ともたびたび戦いを交え、1485(文明17)年とその翌年にたびたび合戦を繰り返し、1487(文明19年)4月には多田氏が降服している。ところが、1491(延徳3)年5月15日には、吐山藤満は興福寺六万衆に攻められて屈伏し、吐山城は焼き払われた。
 1576(天正4)年には織田信長の北畠氏討伐に従った多田延実が伊賀で戦死している。1581(天正9)年、多田氏は筒井順慶に従い、天正伊賀の乱にも参戦した、さらに、四郎常胤は1590(天正18)年、豊臣秀吉の小田原征伐に加わり、小田原城で戦死、多田氏の嫡統はここに絶えることになる。
 多田城は佐比山の北に張り出した通称・城山(標高518.9m,比高77m)にあり、真下に多田の集落を眺め、西に無山城、さらに西に貝那木山城を見渡せる要害の地である。麓の満寿寺から七曲の道を登りきった山頂が主郭で、東西約30m,南北約70mと広く、四周を土塁で取り巻いている。中央部は七面堂が建っている。主郭の西下には畝状竪堀群がみられ、登城途中にも副郭,小郭により敵の侵入を防いでいる。
 なお、北方面には多田北城跡、北西約600mの丘陵には平時の居館とされる多田下城跡がある。

【史跡規模】

【指 定】 

【国 宝】  

【国重文】

関連時代 鎌倉時代 室町時代 戦国時代
関連年号 1214年 1485年・1487年 1532~55年・1576年・1581年・1590年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
多田経実 G109 多田延実 G109 多田常胤 G109

 

【C-NR046】多田城跡
 

 

【C-NR046】多田城跡

 

多田城縄張り図(「奈良の城郭」サイトより転載加筆)

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主郭への虎口 左に見えるのはトイレ 主郭の北東 主郭の北西 主郭の東側から南を見る 東側下に池が見える 虎口のような土塁の切れ目 南の土塁 南の土塁 南の土塁 南の土塁 南の土塁 南の土塁 主郭の南西隅 南の土塁を南西側から見る 主郭西側の土塁 主郭西側の土塁 主郭の南側 南から七面堂を見る 七面堂 七面堂から南を見る 七面堂から南を見る 西の畝状竪堀群へ 西の畝状竪堀群 西の畝状竪堀群 西の畝状竪堀群 西の畝状竪堀群 西の畝状竪堀群