駿府城跡(天守台跡)
すんぷじょうあと(てんしゅだいあと)(Tenshu Foundation Ruins on Sunpu Castle)
【C-SZ161b】探訪日:2025/3.24
静岡県静岡市葵区駿府城公園1-1
【MAP】
〔駐車場所〕
1582(天正10)年、武田氏が織田・徳川勢力により滅亡すると、駿河の武田遺領は徳川家康が領有することになった。1585(天正13)年から徳川家康により、駿府城は近世城郭として築城し直され、この時に初めて天守が築造されたという。
駿府城の天守は3度建てられている。まず、天正年間(1573~92年)または1589(天正17)年に建てられた天正期天守。次が、1607(慶長12)年の慶長1期天守であるが、完成後に火災もしくは建築前に本丸が火災に遭い中止したと見られる。最後は、1608(慶長13)年に再建された慶長2期天守で、その天守台は1896(明治29)年まで現存していた。
2016(平成28)年8月より天守台の発掘調査が開始された。天正期天守台内部には今川期の遺構,遺物が出土しており、今川館の一画である可能性が考えられている。天正期天守台は、慶長期天守台により上半分が壊されているが、確認面の大きさで約33m×37mの天守台で、東側に渡櫓台と小天守が接続した連結式天守であることが確認された。天守台中央から石積の井戸、また金箔瓦も発見されている。慶長1期天守については火災のため資料が少ない。
駿府城最後の天守となった慶長2期天守の天守台は1896(明治29)年に陸軍歩兵第34連隊の設置に伴い、上半分が壊されているが、基底部で約63m×69m、石垣上端で約55m×48mという、江戸城の天守台より大きい城郭史上最大級の規模であった。石垣は割石の表面が加工され、割石間の隙間に小石を詰めた打込み接ぎの積み方である。四隅に櫓をもつ環立式天守であったと考えられており、南側に小天守があった。
なお、天守の外観は『慶長日記』,『当代記』などより下記が判明している(柱間は7尺間)。
1階:10間×12間、四方に落縁
2階:同上、四方に欄干
3階:同上(9間×11間)、腰屋根は瓦
4階: 8間×10間、腰屋根・破風・鬼板は白鑞製、懸魚・鰭・逆輪・釘隠は銀製
5階:6間×8間、腰屋根・懸魚・鰭・唐破風・鬼板は白鑞製、逆輪・釘隠は銀製
6階: 5間×6間(5間×8間)、屋根・破風・鬼板は白鑞製、懸魚・鰭・逆輪・釘隠は銀製
7階:(4間×5間)、屋根・破風は銅製、軒瓦は鍍金、懸魚・鰭・破風の逆輪・釘隠は銀製、筋・鴟吻・熨斗板・逆輪・鬼板は金製
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 戦国時代 | 江戸時代:前期 | 明治時代 |
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関連年号 | 1585年 | 1607年.1608年 | 1896年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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徳川家康 | TG01 |
駿府城天守台跡全体図(「駿府城跡天守台の発掘調査:静岡市」より転載加筆)