梅森北城跡

うめもりきたじょうあと (Umemori-Kita Castle Ruins)

【C-AC388】探訪日:2021/5/14

 愛知県日進市梅森台1丁目

【MAP】

〔駐車場所〕

   1533(天文2)年、松平三蔵信次が築き居城とした。三蔵は深く真宗を信仰し1538(天文7)年、眺景寺を建立し、次子の高照を剃髪させて名を道西とし住職とした。
 1540(天文9)年、安祥城合戦が起こると松平一族は分裂し、佐々木松平家(松平宗家3代信光の弟の久親の子の親久を祖とする)は織田方に与し本家と敵対する。当主である松平三左衛門忠倫(三蔵の兄)が松平広忠に暗殺されると、三蔵は領地を捨て駿河国の今川氏を頼って逃亡し、この時期に梅森北城は廃城になったと考えられる。
 なお、松平氏が今川氏の傘下に入ると、1551(天文20)年、三蔵は兄の領地であった佐々木郷を今川義元から拝領し佐々木城主となるが、桶狭間の戦いで今川義元が討死すると、子の松平三蔵忠就は三河統一を目指す松平元康と再び敵対することとなる。1563(永禄6)年、佐々木城内にある上宮寺などが三河一向一揆を起こすと、一揆側に付いて争うが敗れ去ったといわれる。
 城跡は眺景寺辺りとされ門前に石碑が立つ。規模は東西約44m,南北約58m。梅森北城跡の南には梅森東城跡がある。また、北に位置する東名古屋病院が城跡だとする説もある。

【史跡規模】

【指 定】
【国 宝】
【国重文】

関連時代 戦国時代
関連年号 1533年・1538年・1540年・1563年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
松平三蔵信次 MT** 松平高照 MT** 松平三左衛門忠倫 MT**
松平広忠 MT01 松平三蔵忠就 MT**

 

 

 

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▲眺景寺

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▲眺景寺本堂

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▲八幡社との間の道