池禅尼の塚〔野間大坊〕

いけのぜんにのつか〔のまだいぼう〕(Mount of Ikenozenni[in Noma-Daibo Temple])

【K-AC192】探訪日:1990/7/30・2007/8/25・2014/3/9・2021/6/8

【K-AC192】池禅尼の塚〔野間大坊〕 愛知県知多郡美浜町大字野間東畠50

【MAP】

〔駐車場所〕

【K-AC192】池禅尼の塚〔野間大坊〕

   源頼朝が父・源義朝の墓所とともに野間大坊に供養塔を建てたとされる。
 1159(平治元)年、平治の乱に勝利した平清盛は源義朝ら他の軍事貴族が駆逐し、翌年には義朝の嫡男で13歳の頼朝が池禅尼ならびに頼盛の郎党である平宗清に捕えられた。『平治物語』では、このとき、池禅尼は早世した我が子・家盛に生き写しだったことから、清盛に対して頼朝の助命を嘆願したとされる。また、そのために池禅尼が断食をし始めたため、清盛も伊豆国への流罪へ減刑したとも言われている(実際には頼朝が仕えていた上西門院や頼朝の母方の親族である熱田大宮司家の働きかけによるものと推測される)。
 池禅尼は、藤原宗兼の娘で平忠盛の正室、平清盛の継母に当たる。1164(長寛2)年頃に61歳で死去したとされているが、正確な没年と享年は不明である。頼朝は池禅尼の恩を忘れず、伊豆で挙兵した後もその息子である頼盛を優遇し、平家滅亡後も頼盛の一族は朝廷堂上人および鎌倉幕府御家人として存続した。

【史跡規模】

【指 定】
【国 宝】
【国重文】

関連時代 戦国時代
関連年号 1164年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
藤原宗子(池禅尼) F605 源 頼朝 G202

 

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